130 刻限の魔法使い
人々を守って奮戦する魔法使いたちの姿を、黒いシグネットリングの男は感情のない目で見つめていた。
「無駄なことを。この数の魔獣を押さえ込むには明らかに戦力が足りない。観衆を囮にして、魔獣の迎撃だけ考えれば少しはマシになるだろうが、そういう合理的な判断ができないから君たちはここで死ぬことになる」
目の前に広がる残酷な現実。
観客席保護のために張られた魔術障壁のおかげで被害こそ食い止められているものの、戦力差はあまりにも絶望的。
迎撃が追いつかず、無数の魔獣たちは魔術障壁に津波のように覆い重なっている。
この一区画を襲う魔獣に対処するだけでも必要な魔法使いの人数は百人以上。
会場の観衆すべてを守るためには、その二十倍近い人員が必要になるのは明らかだった。
あと数分もすれば、魔術障壁は食い破られ、あふれ出した魔獣の群れは瞬く間に都市を飲み込むだろう。
「は、早く私たちも避難を」
慌てた声で言う貴族の男。
「慌てることはない。そのための準備はしてある」
黒いシグネットリングの男が取り出したのは、かすかに発光する小さな石だった。
「ドレスデン大迷宮の七十六層で発見された特級遺物――《星の秘石》。魔力を込めることで事物の空間転移を可能にする奇跡の石。一瞬で我々は街の外だ」
「さすがでございます」
安堵の息を吐く貴族の男。
表情のない顔で、黒いシグネットリングの男が石に魔力を込めようとしたそのときだった。
「君たちが事態の元凶か」
(なんだこの異質な魔力の気配は――)
その一瞬で、男は本能的に理解している。
既に余裕を見せていられる状況ではない。
自身のすべてをなげうってでもこの場から離脱するという一点に全力を尽くすべき局面だ。
対象を自分一人に限定し、最速の動作で《星の秘石》を起動させる。
しかし、瞬時に選び取った最善手も彼の望みを実現することは叶わなかった。
(秘石が起動しない……!)
いや、起動しないのではない。
既に彼の手の中から秘石は失われている。
「ここまでやりたい放題やっといて自分だけ逃げるのはさすがに虫が良すぎると思わない?」
穏やかに微笑むその人物について、男は知っていた。
「《刻限の魔法使い》……!」
「おや。知ってくれてるんだ」
「当然だろう。アーデンフェルド王国が誇る最強の特記戦力。貴様を排除するために我々がどれだけ手を尽くしてきたか」
「がんばってくれたわけだ。光栄だね」
「だが、この状況はむしろ好都合とも言える」
黒いシグネットリングの男は言う。
「《刻限の魔法使い》と言えど、この数の魔獣から観衆を守りつつ戦うのは不可能。ここが貴様の死地となる」
瞬間、破砕する魔術障壁。
《刻限の魔法使い》の背後から、魔獣の群れが一斉に襲いかかる。
死角からの不意打ち。
障壁を食い破ってなだれ込む魔獣の数は一秒間に七十を超えた。
人間が対処できる域をはるかに超えた破壊的な魔獣の群れ。
自分一人を守るだけなら手段もあるだろう。
しかし、観衆の被害を食い止めようとすれば、状況の難度は格段に跳ね上がる。
(一体の討ち漏らしもせず、なだれ込む魔獣の群れを抑えきるには千人近い数の一線級の魔法使いが必要になる。弱者を切り捨てられない甘さが貴様の敗因だ)
魔獣の群れが《刻限の魔法使い》を飲み込む。
対して、藤色の髪をした魔法使いは静かに魔法式を起動した。
《時を停止させる魔法》
吹き飛んだ手すりの破片が中空で静止する。
極限まで引き延ばされた刹那の中で幾重にも展開する魔法式。
たとえ時間停止を破ったとしても、到底視認することは叶わない術式起動速度。
起動した無数の攻撃魔法のひとつひとつは、決して難しいものではない。
しかし、常人を遙かに超える魔力量と何重にも重ねられた黄金の魔法式は、強靱な魔獣の体躯を紙細工のように破砕する。
伝説の魔法使いは、周辺一帯にいたおよそ三百の魔獣を瞬きの間に蹂躙。
魔獣たちは自分が既に終わっていることを知覚することさえできなかった。
立ち尽くす黒いシグネットリングの男。
(な、なんだこれは……)
《刻限の魔法使い》は氷のように冷たい声で言った。
「王国最強の魔法使いとして、後輩たちは一人も殺させやしないよ」