116 綺麗
目の前に現れた王宮魔術師団総長。
すぐ傍に来るまで、まったく気づくことができなかったのも驚きだったけど、何より衝撃的だったのはその術式起動速度と精度だった。
私が反応さえできなかった攻撃に対し、一般に知られている魔法技術ではありえない魔法で対処する。
この人、すごい……。
思わず立ち尽くす私の顔をのぞき込んでクロノス総長は言う。
「少し切っちゃってるね。じっとしてて」
黄金色に発光する魔法式。
指でなぞると、まるで消しゴムで消したかのように傷口は消えてしまった。
「莫迦な……このナイフには回復阻害の付与がかけられているはず……」
低い声で言う暗殺者さん。
「私の回復魔法は他とはちょっと違うからさ。その付与魔法式じゃ止められないんだ。残念だけど」
当然のようにクロノス総長は言う。
「バジリスクの毒まで塗っちゃって。私がいなかったら死んでるよ? まったく」
「……まさか、効果範囲の固有時間を巻き戻しているのか」
「勘のいい子は嫌いじゃないかな」
感心した様子で微笑む総長。
対象の固有時間を巻き戻す魔法って……。
現代魔法研究における最先端の学術書の中でもそんな魔法は存在の示唆さえされていない。
時間に干渉する魔法は、森妖精に伝わる秘術や失われた古代魔法の技術が必要で、そこにまつわる知識がなければ研究さえできない領域だからだ。
そんなすごい魔法を、ここまで完璧に使いこなすなんて……。
あっけにとられて見つめること数秒。
私は小声で総長に言った。
「あの、後でこっそり教えてもらえませんか?」
「え?」
「すごく興味あるんです。知りたいんです」
「君は今、暗殺者に取り囲まれてるんだけどそれもわかった上で言ってる?」
「空気を読むべきだとわかってはいるんですが、わくわくが止められなくて! お願いします! ちょっとだけ! ちょっとだけでいいので!」
私の言葉に、総長はくすくすと笑った。
「そっか。止められなかったか。だったらしょうがないね」
それから、目を細めて続ける。
「そういうところ良いと思うよ。空気を読まない変な子であることも魔法使い向きの資質だから」
「総長様に褒められてしまった……!」
王国史に名を残す大魔法使い様に褒められてしまうなんて。
帰ってルークにいっぱい自慢してやらないと。
うらやましがるルークを想像して、頬をゆるめていると暗殺者さんが言った。
「驕りというのは恐ろしいものだな。偉大な魔法使い様は自分がどういう状況にいるか理解できていないらしい」
冷ややかな声で言って、クロノス総長をにらみ付ける。
「いくら刻限の魔法使いとはいえ、生身の人間であることには変わりない。殺してしまえば死ぬのだろう。だったら、我々の領分だ」
周囲を取り囲んだ暗殺者さんたちは、ナイフを構えてじりじりを間合いを詰める。
「理解できていないのは君の方だよ」
瞬間、暗殺者さんたちの身体が崩れ落ちた。
立っていることさえできない。
唖然とした表情。
まるで頭を垂れるみたいに、
両手を地面に突き、身体を支えるのが精一杯。
「今、いったい何の魔法を……」
「魔法は使ってないよ。普段抑え込んでいる魔力の一部を解放しただけ。君たちを行動不能にするなら、それで十分だから。残念だけど、君たちでは私の敵にさえなれない」
攻撃とさえ言えない魔力を解放するだけの行為。
魔法式を起動することさえせずに、これだけの数の手練れを簡単に……。
呆然とする私を襲ったのは、さらに強烈な別の魔力の気配だった。
「――――!?」
息がうまくできない。
途切れそうになる意識を紙一重でつなぎ止める。
よろめく身体を、膝を突きつつなんとか支えた。
「大丈夫?」
総長の声に、なんとかうなずきを返す。
「うーん、今はあの子と遊んでいる気分じゃないんだけど」
クロノス総長のそれとはまったく違う、触れるものすべてを焼き尽くす恒星のような魔力の気配。
ばたばたと崩れ落ちていく暗殺者さんたち。
三十を超える人数が泡を吹いて倒れる光景は、言葉にできない本能に訴える恐ろしさをたたえている。
「皆様、ごきげんよう。良い夜ね」
最初に現れたのは黄緑色の光を放つ蝶だった。
どこからか現れた蝶はその数を増し、蛍のようにひらひらと舞い踊る。
「予定外の相手もいるけれど、ここはプラスに捉えましょう。二人と同時に戦えると思えば、とっても楽しめそうなイベントだわ」
蝶の群れの中から現れたその人の名前を私は知っていた。
エヴァンジェリン・ルーンフォレスト。
帝国領東部に位置する大森林の管理者である森妖精の女王。
国別対抗戦で三連覇を果たした、帝国最強の魔法使い。
「巡り合わせを神様に感謝せずにはいられない。順番待ちなんて必要ないわ。二人で向かって来て。そして、私を楽しませて」
精霊女王エヴァンジェリン・ルーンフォレストは、不敵に微笑んでそう言った。
突如目の前に現れた帝国最強の魔法使い。
対して、クロノス総長は肩をすくめて言う。
「いや、ここで私たちが戦ったら周囲の建物も無事じゃ済まないからね。うっかりこの辺一帯を更地に変えて、帝国関係者から指名手配される未来が見えてるから」
「いいじゃない。それはそれで楽しそうだし」
「周囲に気を使うって感覚ないのかな。君は」
「人生には限りがあるの。気なんて使っていたらすぐに終わってしまうわ。勿体ないじゃない、そんなの」
エヴァンジェリンさんは言う。
「私はこの世界の女王よ。私が決めて、私が裁くの。それだけ」
「いや、貴方この世界の女王じゃないからね。いつも言ってるけど」
「私が女王と言えば女王なの。この世界は私のもの。私がそう決めたから」
「変わらず元気そうで何よりだよ」
総長は苦笑してから、私の手を引く。
「私は気遣い屋で優しい王宮魔術師団みんなのお兄さんだからね。人に迷惑をかけるのは好きじゃないんだ。ここは退かせてもらうよ」
指の先で発光する黄金色の魔法式。
《固有時間加速》
自分が一番得意とする魔法。
だけど、開発者であるその人の魔法式は、私のそれとはまったく違っていた。
すべてが計算されて形作られた芸術的なまでに美しい魔法式。
奇跡のような術式効率が生み出す規格外の加速。
「その程度の速さで私から逃げられると思った?」
だけど、帝国最強の魔法使いはその上をいった。
森妖精に伝わる秘術――空間転移魔法。
刹那の間に移動した彼女は、私たちの目の前に浮いている。
やられる――
背筋が凍る強烈な魔力の気配。
「空間転移くらいで私を捕らえられると思ったかい?」
そのとき、すぐ傍で見た魔法式を一生私は忘れないと思う。
《時を停止させる魔法》
発動者以外すべての時間を停止させる魔法。
それは私が見てきたどの魔法式よりも綺麗で――
絶対に忘れるなと自分に言い聞かせていた。
目に焼き付けろ。
少しでも多くの情報を記憶するんだ。
いつか自分にもできるように。
もっと魔法がうまくなるために。
だけど、そんな思いさえ気づけば忘れてしまうくらいに、
その魔法式は、私が知るどの魔法式ともまったく違う、思わず時間を忘れてしまうくらいに眩く美しいものだった。