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―狂える英雄―

 少々、凄惨な描写がございます。

 男は、マリアンヌが持ち込んだ相談には無関心だった。

 常連客として、長い間彼女の身体を買ってきたというのに、結局はそこに愛情は存在せず、ただ欲望があるだけだった。


 勿論、マリアンヌの要求した金額が、決して安いものではなかった所為もあるのだろうが、それ以上に、犯罪組織と関わってしまうかもしれないという可能性を、男は恐れたのかもしれない。

 

 だからマリアンヌがいくら必死に頼み込んでも、客の男は首を縦には振らなかった。

 そこで追いつめられたマリアンヌは、自身とその男の関係を言いふらす――と、脅迫という手段に訴え出た。


 男はそれなりの地位と、家庭を持っていたのだろう。

 そんな彼が、娼婦を買ったと世間に知られれば、身の破滅であった。

 

 口論は先ほどまでとは比べものにならないほど、激しくなった。

 ついには争うような喧噪。

 そして――、 

 

 一際(ひときわ)激しく、何かが2度、3度と叩きつけられ、更に何かが倒れる音が室内に響き渡る。

 リチャードが慌てて母と客がいたはずの部屋を覗き見ると、誰かが倒れていた。

 彼はそれが母だとは、暫く気づかなかった。


 母の顔は、見る影もなく潰されていたのだ。

 間近にあるタンスの角が血に染まっており、そこに顔面を叩きつけられたということが推測できた。

 

 玄関には、逃げだそうとしている男の背中が見えた。

 だが、あまりの衝撃で、男を追おうなどいう考えは、リチャードの頭には無かった。

 そもそも、幼い彼に何ができただろうか。

 

 ただ、男が闇夜の中に消える寸前、1度だけ振り返った。

 その時見た恐怖に歪んだ男の顔のイメージを、リチャードは決して忘れなかった。

 憎しみと共に、何年も何年も延々と……。

 

 翌日、通報を受けた警備隊は、マリアンヌを殺害した犯人の捜索を開始した。

 しかし、その捜査は酷く投げやりなものだった。

 

 何故ならば、移民だったからなのかは定かではないが、マリアンヌは正式なチャンダラ市民ではなかったからだ。

 戸籍を持たない彼女の名前や年齢が本当のものなのか、それはリチャードにすら知る術が無かった。

 そんな社会システム上では存在していないも同然の人間の為に、警備隊がまともに労力を割くはずがなかったのだ。

 

 ところが、リチャードにだけは戸籍が存在した。

 そのおかげで彼は、市が運営する孤児院に入ることができた。

 学校で教育を受けることも許された。

 それ以外にも、様々な市民としての恩恵を受けることができるようになった。

 

 どうやらマリアンヌは、リチャードの知らぬ内にチャンダラの市民権を金で買っていたらしい。

 それは決して安い金額ではなかっただろう。

 そしてその金があれば、彼女は死なずに済んだかもしれない。

 

 リチャードは愕然とした。

 これだけ尽くしてくれた母に、彼は何も報いることができなかったのだから。

 最早、母に対する反発も嫌悪も無い。

 ただ、後悔と自責と、思慕の念があるだけだった。

 

 それからのリチャードは、母が遺してくれたチャンダラ市民としての権利を最大限に生かし、やがて警備隊の隊員という地位を手に入れた。

 そして身を削るように、その職務に打ち込んだ。


 それは未だ逮捕されていない母を殺した男を、自らの手で捕らえる為に、そして母の事件をまともに捜査しなかった警備隊の――いや、この世の中全体の不条理を正す為に。

 それが彼の悲願であり、母に対する贖罪であった。

 

 ただ、母が死んだあの日から、母を染めた血の紅い色がリチャードの頭から離れることはなかった。

 時々、無性に血が見たくなることさえあった。

 その紅い色と共に、母を思い出すことができるような気がしたからだ。

 何故ならば、母を避け続けて来た彼にとって、母との思い出は決して多くはなく、あの血の紅こそが、母に関する最も鮮明な記憶であったのだから……。


 つまりリチャードは、母が死んだその時から既に――狂人だった。



「聖職者が人を殺しても……いいのか?」

 

「なっ、何を言っているのだっ!? 

 知らんっ、知らんぞっ!

 私には身に覚えは無いっ!」

 

 指摘を受けて最高司祭は、半狂乱になって叫んだ。

 だがそれは、リチャードに確信を抱かせる為の、材料にしかならなかった。

 

「身に覚えが無いのなら、何故そんなに取り乱す……? 

 俺はあの時に見た貴様のその怯えた表情を、片時も忘れたことは無かったぞ? 

 ……まあ、この期に及んでもまだ聖職者面をしていたのならば、気付かなかったかもしれぬがな……。

 所詮は最高司祭などと名ばかりの紛い物。

 その醜い本性を現せっ!」

 

「ぎゃああああああああああ――――――!?」

 

 リチャードは最高司祭の左手首を斬り落とした。

 斬られた最高司祭は絶叫を上げつつ床を転げ回り、周囲の床は紅く染まってゆく。

 

「たっ、助け、助けて! 

 嫌だ、死にたくない!!」

 

「何だ……お前達の教義では、死後は神の国で安らかに暮らすのではなかったのか? 

 何を恐れる?」

 

 リチャードは微笑んだ。

 最高司祭のあまりにも無様な姿が、可笑しくてたまらない。

 

「貴様等らの教義(戯れ言)など、地獄の悪魔に聞かせている方が相応しいわっ!」

 

 リチャードは最高司祭の身体に斬りつけた。

 しかし急所は外してある。

 母を殺したこの男を、楽に殺すつもりはなかった。

 彼は殺さぬように手加減しながら、司祭の身体を斬り刻んでいった。

 

「ハハッ、ハハッ、ハハハハハハハハハ」

 

 いつしかリチャードは、最高司祭の悲鳴をかき消すほどにけたたましく笑っていた。

 この時彼は初めて、竜の血による精神の暴走の為でも、ましてや理想や己の正義の為でもなく、ただ憎悪と狂気によって、自らが望んで人を殺した。

 人として最低限の良心を、捨てたのだ。

 

 そして――この最高司祭こそが、彼の実の父親であるという事実を、リチャードはついぞ知ることはなかった。

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