―独立した悪意―
結界を突き破ったリチャードの剣は、ルーフの頬をかすめて通りすぎた。
「…………!!」
ファーブによるルーフの操作は、解除される寸前ではあったが、回避はどうにか間に合った。
しかし直後に身体が急に解放されたことと、結界が破られた衝撃によって、バランスを崩してしまったルーフは、声にならない悲鳴を上げながら地面に転がった。
それでも慌てて起き上がろうとしたルーフであったが、その動作の途中でビタリと身体を硬直させる。
「ひうっ……!」
リチャードの剣の切っ先が、ルーフの喉元に当てられていたからだ。
もう少し動きを止めるのが遅ければ、自らの動きで致命的な傷を負っていたかもしれない。
「……ガキが……手こずらせやがって……!!」
「あわわわ……ころころ殺す?
僕を殺すの!?」
「勿論だとも!」
リチャードは「当たり前のことを聞くな」とでも言うような調子で吐き捨て、軽く剣に力を込める。
すると、ルーフの首筋にプツリと剣が浅く刺さり、わずかに出血した。
「――――!!」
ルーフは絶叫を上げそうになるのを、必死で堪える。
下手に大声を出せば、それだけで更に深く、刃が喉へと食い込みそうだったのだ。
そんな絶体絶命の状況に追い込まれたルーフの脳裏によぎったのは、「着替えたい」──そんな想いだった。
確かにこんな女装姿の屍を遺すのは、恥辱以外の何物でもない。
だが、この状況においては、もっと他に考えることがあるだろうに──と、ルーフは自分でも思う。
(こんな馬鹿なことを、考えている場合じゃないのにっ!)
だが、この現実逃避めいた思考に突っ込みを入れる行為が、ルーフの心に少しでも冷静な部分を残す結果となっているのも確かであり、それが彼の命を繋いでいるとも言える。
この危機は最終的にファーブがなんとかしてくれるのだろうが、その前にパニックや自暴自棄を起こしてしまっては、助かるものも助からなくなる。
だから今のルーフに必要なのは、努めて冷静さを維持し、自身にできることを模索することだ。
ところが、彼がこの危機的な状況から脱する手段を必死に考えていると、リチャードはおもむろに口を開いた。
「……お前と一緒にいた女はどこにいる?
ドナウ山脈へ向かったと聞いたが……?」
「……そ、その通りです。
ザンさんは山脈で何が起こったのかを、確かめにいきました」
「クククク……。
そうか、ならば奴も街に戻ってくる前に、片付けておいた方がいいな……」
「……!!
もうこんなことはやめてくださいよ、リチャードさん!
もうすぐザンさんがあなたを操っている竜を、倒してきますから。
だから──」
「……操る?
…………俺を?
クククク……フハハハハハハハ……!」
ルーフの言葉を聞いたリチャードは、けたたましい哄笑を上げ始めた。
「なっ……!?」
リチャードの思いがけない反応に、ルーフは唖然とする。
一体何がそんなにおかしいのかが分からず、思わずその正気を疑った。
そんな彼に対し、リチャードは唐突に笑いを止めて、不機嫌そうに、
「そんな者は、存在しない……!」
強く否定した。
「で、でも……っ!」
しかしそれでは、どのようにして竜の血に寄生されたというのか──ルーフにはそれが分からなかった。
「確かにこの身体に流れる竜の血の主は、俺を操ろうとしたのだろう。
だがそんな奴は、俺の理想の邪魔にしかならない!
だからこの手で、葬り去った!」
「そんな馬鹿な話が、あるかあぁぁーっ!?」
「!?」
不意に絶叫じみた突っ込みの声が上がった。
ルーフの声ではない。
リチャードが声がした方向――自らの背後に目を向けると、そこには巨大な眼球が浮遊していた。
(今だっ!)
「っ!?」
ルーフはここぞとばかりに四つん這いの姿勢のまま、あたふたと全力でリチャード剣の間合いから脱出する。
一瞬その後を追おうとしたリチャードだったが、目の前にいる巨大な眼球を無視する訳にもいかず、結局はその場に踏み留まった。
「くっ、使い魔かっ!?
魔術士が相手ならば、念頭に置くべきだったっ!」
「どちらかってーと、あいつの方が使い魔って感じだけどな……」
「それ、酷いです……」
逃げこんだ建物の陰から、ルーフが弱々しく抗議する。
使い魔とは魔術士などが魔術で使役する奴隷のようなものだが、今しがた身体の自由をファーブに操られてしまったばかりの彼には、あまり強く否定することができないようだ。
「そんなことよりも……。
本当に貴様が竜を倒したって言うのなら、少々本気で相手をしなければならないようだな」
「なんだと? この化け物が……」
リチャードは剣を振り上げる。
ファーブのその見た目だけならば、人間よりも容易く斬り伏せることができるように見えた。
一撃入れれば、それで十分だと――。
「――っ!?」
しかし膨大な量の魔力がファーブに集中するのを感じ取り、リチャードはその一撃を繰り出すことがができなかった。
危険を感じ取った彼は、慌てて後方へ退くことを試みるが、ファーブは逃げる暇を与えない。
「爆炎!!」
ファーブは呪文の詠唱を省略して術を完成させ、即座にリチャードへと叩き込んだ。
本来ならば呪文の詠唱――即ち魔術を完成させる為の手続きのような物を省略すれば、まともな術の効果など期待できない。
しかし、それこそがファーブの狙いであった。
リチャードを中心に、耳をつんざくような破裂音を伴って爆発が生ずる。
「グワアァァァァ――――――ッ!?」
今、ファーブが使用した呪文は、火炎系攻撃呪文の中でも中規模の威力を持つ術で、人間が使用した場合でも家屋の2~3軒はまとめて爆砕できる威力がある。
もしも強大な魔力を持つファーブが全力でこの呪文を使用すれば、チャンダラ市の1割以上の面積が吹き飛んだあげく、市全体を包み込むような大火災が発生しかねなかった。
だからこそファーブは、中途半端な完成度の術でリチャードを攻撃したのである。
それでも元が付くとはいえ、人間相手に使用するには、威力がありすぎる術ではあった。
「グ……ガ……ガ……!!」
だが、その激しい爆発の中心にありながらも、リチャードの五体は欠けることなく、原形を保っていた。
さすがは竜の血によって強化された肉体ということか。
ただ、さすがに高熱の炎に包まれて身体を焼かれる感覚は耐え難いようで、彼は苦痛に震える声を吐き出しつつ、悶え苦しんではいたが。
それでも、これはファーブが想定していた結果にはほど遠い。
「げ……生きてるよ……」
半ば茫然としたような口調で、ファーブは呻く。
彼はリチャードに対して、ダメージを与えるつもりで攻撃したのではない。
その命を断ち切るつもりで攻撃したのだ。
ところがリチャードは、その攻撃を耐え抜き、それどころかむしろ――。
「…………!!」
ファーブの側にいた方が安全だろうと駆け寄ってきたルーフは、燃え盛る炎の方に目を向けて息を飲んだ。
炎の中で仁王立ちとなり、彼らを睨み据えてい存在がいたからだ。
リチャードは早くも、炎を克服しようとしていた。




