―旅の始まり―
「……正気か?
こんな奴を、私に同行させるなんて……」
ファーブニルを旅に同行させるというカンヘルの意向に、ザンの声音は明らかな不満を示していた。
また、ファーブニルも瞳孔を開いているところを見ると、驚いているようである。
しかし当のカンヘルは、ザンたちの反応を予測していたのか、平然とした様子だ。
「勿論正気だとも。
これからお前を独りで旅をさせるのは、どうも心配なのでな。
私が付いていきたいところだが、生憎それほど暇でもなし、人間の世界ではこの姿は少々目立つ。
その点、今のファーブニルなら、姿を隠すのはそれほど苦労しないだろうよ」
「……しかし――」
「ザン……まさか本気で邪竜の全てを、お前の力だけでどうにかできると思っておるまいな?
今この世に存在する邪竜は、大戦を生き延びた猛者揃い……。
しかも、四天王の全ては生き残っているらしい。
あまり甘く見ないことだな。
……それとも、竜王の側近たる私が、厳命せねばならぬか?
できればお前の自由意志に、任せたいのだがな……」
まだ文句を言いたげなザンを、カンヘルは有無を言わせぬ口調で制す。
「……分かったよ。
だけどこんな奴、絶対に信用なんかしないからな……」
ザンは表情にこそ出さないが、まだ不満を残しているようで、その返事の歯切れは悪い。
それでも彼女は、足の下からファーブニルを解放した。
「……そういう訳だから、ザンのサポートを頼むぞ、ファーブニル」
「……俺は了承した憶えは無いんだが」
「お前に選択権は無い。
ザンの為にちゃんと働かなければ、その封印を私は解かんぞ。
それに、お前の他の能力は封じていないのだから、自由なものだろうが」
「…………」
(それじゃあ、自力で封印を解くこともできるじゃないか……。
チェッ、信頼されるってのには弱いんだよな、俺)
ファーブニルは渋々とした声音で、
「何だか俺の性格を読まれまくっているのは気に食わんが……。
まあいいさ。
斬竜王の娘には、俺も興味があるからな……」
と、承諾した。
そして彼は、自身へと感情のこもらぬ冷たい視線を向けてくるザンを見上げる。
(そうだな……。
まずはこの娘の感情を取り戻させてから再戦か……。
それまで付き合うのも、悪くはないだろう……)
そんな軽い気持ちでザンとの旅を始めたファーブニルであったが、それから200年近い年月を共に旅をすることになろうとは、この時の彼には思いもよらぬことであった。
「――そういう訳で、あいつと旅をするようになったんだけど、最初のうちは一言も口をきいてくれなくて大変だったな~。
それでも、あいつの感情を取り戻す為に色々なことをやってみたりしてさ、長い時間をかけてようやくザンも、今みたいに普通の人間らしく振る舞えるようになったって訳だ」
そう語るファーブの口調は、「今のあいつがいるのは俺のおかげだ」というような自慢げなものでも、恩着せがましいものでもなく、まるで娘の成長を見守ってきた父親のような感慨に満ちていた。
実際に彼の心境は、それに近いのかもしれない。
「……そんなことがあったんですか。
でも、なんだか昔のザンさんがそんな風だったなんて、想像できないなぁ。
今じゃあ、感情剥き出しって感じですよね……」
「まあな……。
だが、それこそがあいつの心が、まだ不完全だという証明だな。
邪竜との戦いで怒りに我を忘れることもあれば、そんな自分に激しく自己嫌悪することもある。
ザンはまだ感情をコントロールすることに、慣れていないんだ。
それでもルーフが旅に加わってからは、あいつも随分と良い感じに変わったよ。
今までだったら今日――いや、もうとっくに昨日か、みたいに自分から母親の話をすることなんて無かったもんな。
ようやく過去の記憶に、整理がつき始めたみたいだ。
……だからルーフ、お前には感謝している」
「いえ、感謝だなんてそんな、僕は何もしていないし……」
真面目な調子でファーブが礼を言うので、ルーフは思わず照れてしまった。
それと同時に竜であるファーブが、ただの人間に対して本気で感謝するなんてこともあるのか──と、驚きもした。
(竜とはいっても、考えていることは人間とあまり変わらないんだなぁ……)
そう思うとルーフは、ファーブに対して急に親しみのようなものが湧いてきた。
「でも、それじゃあ……。
ザンさんとは、またいつか戦うつもりなんですか?」
「んー……どうかな?
今となってはザンの成長を見ている方が、面白くなってしまったしな。
それにあいつが戦っているのを見続けていると、戦いは楽しんではいけないものだって気にもなってくるわな」
ファーブのその言葉を聞いて、ルーフはなんとなくホッとする。
「そうですよね。
それにその姿では、戦う云々以前の問題でしょ?」
「……そう思うか?
俺もただただ従順に、この姿に甘んじている訳ではないぞ?」
「…………え?」
ルーフは訝しげに問い返した。
しかしファーブはそれ以上何も語ろうとはしない。
ただルーフは、目玉が不敵に笑ったかのような、錯覚を見た気がした。
(う……、この人もまだまだ謎が多いなあ……。
ひょっとして封印とやらも、もう解けているのかも……)
ルーフは改めて自身が、とんでもない存在と行動を共にしていることを実感する。
心なしか顔から血の気が引くような感覚を覚えながらも、彼は何気なく空を見上げてみた。
すると東の空の方が、僅かに白み始めている。
もう夜明けも近い。
結局ところ、その日はいくら待てども、事件の犯人が現れることは無かったのである。
同人誌時代の読者から、ファーブが希に「目玉おやじ」と呼ばれていたのは、外見の所為だけではなく、このエピソードの影響もあるのかもしれない……。




