―血 臭―
ファーブにとってザンとの会話は、それが憎まれ口だとしても楽しい。
それにザンが少しずつ変わっていく姿を見るのも、彼の密かな楽しみでもある。
ファーブがザンと初めてであった頃、彼女は全く表情の無い娘だった。
それが今ではそれなりの感情を表すことができるようになり、更に幼い頃に迫害されていたが為に対人関係の構築が酷く苦手だという欠点を、どうにか克服しようという意志が見られるようにもなってきた。
いい傾向だとファーブは思う。
復讐だけを望んで生きていくよりも、人々との付き合いの中に居場所を築いていくことの方が、きっとザンにとっても幸せだろう。
このように徐々に「人間」として成長していくザンの姿を見るのが、ファーブには楽しい。
父親が娘を育て、見守るようなものである。
ただ、問題が山積みなのも事実ではあった。
特に今回の事件におけるザンの立場は微妙で、彼女が元凶だと言っても過言ではない。
たとえもう一方の元凶だと言える竜を倒したところで、ザンの罪が帳消しにされる訳ではく、1人でも犠牲者が出ている以上、ザンのことを激しく責め立てる者はいるはずだ。
しかし当のザン本人は、そのような可能性を殆ど考えてはいないだろう。
いや、それを考えられるほど人の心理や人間関係というものを、まだよく理解していないのだ。
だがそれは、最悪の結果を予想できず、だからこそ心になんの防波堤も築けぬままに、その最悪の結果に直面してしまう危険性を有している。
それがザンの心をどれだけ傷付けるのか、正直ファーブにも想像が付かなかった。
あるいはようやく回復の兆しを見せつつある彼女の精神の傷を、再び元の状態にまで広げてしまうかもしれない。
その可能性を思うと、ファーブは今回の事件の結末を見るのが、少し怖かった。
(でも……まあ、結局はやれることをやるしかないか……)
と、ファーブは慎重に、竜の気配の出所を探っていく。
その結果、敵が確実に近付いている実感はある。
接触はもう時間の問題だろう。
だが――、
「何だ……?
血の臭いがする……」
ザンが訝しげに呟いた。
「ん?
死体が近くにでもあるってことか?
俺にはよく分からんが……」
目玉に鼻がある訳がないので、無理もない。
が、ここは風に乗ってきたわずかな臭いに、気付くことができたザンの嗅覚を褒めるべきか。
「……いや、死体にしては腐臭は混ざっていないし……少なくとも出血してから間もないってことだよな。
それが遠くから風に乗って流れてきたって感じで……風上は向こうだから……」
そう呟きながら、ザンの表情は徐々に険しくなっていく。
「村の方からだ……」
どうやらサントハム村の方で、何かが起こったようだった。
しかもこんな数kmも離れた場所に血の臭いが届くくらいだから、かなり凄惨な流血沙汰になっていることは間違いないだろう。
「まさか……奴が村を!?」
「いや……奴の気配は、しっかりとこの周辺から感じられる……。
おそらく分身を作りだして、その分身に村を襲撃させているのだろう。
そちらに俺達の意識が向いている隙に、逃げるつもりなんじゃないかな?
まあ、村を襲っているのが本体で、この付近にいるのが囮だという可能性もあるが……どうする?」
「村に戻る!」
ファーブの問いにザンは即答した。
しかしそれでは、この付近に潜んでいるかもしれない竜の逃走を、許してしまうことにもなりかねない。
そうなってしまえば、竜はまた何処かで村や町を襲い、凄まじい数の人間の命が奪われてしまうだろう。
大局的に見れば、ここは竜の始末を優先させた方がいい。
だが、ファーブはザンの判断が、間違っているとは言えなかった。
確かにザンの選択は、より多くの犠牲を増やす結果になりかねない。
しかしまだ顔さえも知らぬ将来の犠牲者の心配をするよりも、多少なりとも縁のあるサントハム村の人々の心配をする方が人間としては当たり前だろう。
それに目の前で苦しんでいる者を見捨てて犠牲にするような者は、再び同じ様な選択肢を目の前に突きつけられた時、また何かを犠牲にすることを選択するものだ。
「大局的にみれば犠牲は減る」と言い訳して何度も、何度でも、繰り返し他者に犠牲を強いる。
しかもその犠牲を正当化しているから、「多少の犠牲」が「大きな犠牲」になろうともこだわらないようになってくる。
結局は大局的に見ても、犠牲は全く減っていなかった……ということになりかねないのではないか。
本当に犠牲を減らしたいのならば、たとえ小さな犠牲でも可能な限り容認するべきではない。
そしてたとえ困難だとしても、誰も犠牲にならないで済む方法を模索していくべきだ。
それこそが決して犠牲を無くすことはできないにしても、徐々に減らしていく為の唯一の手段なのではないだろうか。
無論、そんなものは世間知らずの子供が語る夢物語だ──と、一笑に付されてしまうような理想論なのかもしれない。
そんな理想通りにことが進むほど世の中は生易しくはないし、それを無理に押し通そうとすれば大きな挫折を味わうことになるかもしれない。
それでも目の前の犠牲を見過ごすような真似をするよりは、尊ぶべき物があるとファーブは思う。
(まあザンも、深く考えての行動ではないのだろうけどさ……)
ザンはただ単に懐いているハンナのことが心配なだけで、後先なんか考えていない可能性の方が高い。
(でも、昔のザンならば、竜の始末を優先したはずだ……)
そんなかつての竜と戦うことにしか興味がなかった頃のザンより、今の彼女の方がよっぽど魅力がある。
そんな彼女の後押しをしてやることは、ファーブにとって悪い気はしなかった。
「よし、村までなら転移魔法で一気に送ってやるよ。
一刻を争うしな」
「ああ、頼む」
珍しくファーブへと素直に頼ってくるザンの様子に、ファーブは張り切るのであった。
しかし──、
(ただ……奴が何を材料にして分身を作ったのか……それが問題だな)
ファーブは脳裡によぎる一抹の不安を、どうしても拭いさることができなかった。




