―残されたもの―
ザンは必死にファーブへと呼びかける。
「おい、ファーブ!
なんか言えよ!?」
「ミュ?」
しかしファーブは、わずか首を傾げるだけだ。
どうやらザンが誰なのかさえも、認識できていないらしい。
「こ……これじゃあ、まるっきり生まれたてみたいじゃないですか……」
愕然としたようなルーフの言葉を受けて、ザンの顔も見る見る内に暗く沈んでいく。
「……記憶を残す余裕が、無かったのか……?」
そんなザンの推測はおそらく正しい。
もしもファーブが腕を切断されたその瞬間から分身を作る為の行動していれば、彼の記憶は失われずに済んだかもしれない。
だが、今ザン達の目の前にいる分身は、彼が自身の命が長くないと判断した危機的状況に至って、ようやく作り始めたものなのだろう。
命が尽きかけている彼に、しかも本体からかなり距離が離れた腕の中に、完璧な分身を生み出している余裕など無かったはずだ。
あるいは今ここに、この分身が生きていることさえ、奇跡的なのかもしれない。
結局のところ、ファーブという人格は失われてしまったのだ。
それは死と同義である。
「……ファーブ……ごめんな」
と、ファーブ抱きしめるザンの目には、涙が溢れている。
先程までの彼女には、ファーブの死に対しての覚悟があった。
だからファーブの死に愕然としていたルーフを、励ましてやれるだけの余裕があったのだろう。
だが、ファーブが生きていることが分かり、しかしその喜びを裏切られてしまった今のザンは、最早この悲しみに耐えることができなくなった。
彼女の目からは、とどまることなく大粒の涙がこぼれ落ち続ける。
ザンは沢山の人々を守る為に、必死で戦ってきた。
そしてそれは、ティアマットを倒すことによって成就したといえる。
だが、肝心な者を守ることができなかった。
200年近い時を共に過ごして来た、大切な者を──。
ザンにとってのファーブは、ただの相棒であるだけではなく、友であり、そして家族でもあった。
それを彼女は、失って始めて思い知らされたのだ。
そんな事実とともに彼女が今感じている喪失感は、ルーフにも推し量ることができなかった。
「ザンさん……」
だからルーフも、ザンを慰めることもできずに、ただ茫然と佇むことしかできなかった。
それから暫しの間、2人の間に重い沈黙が続く。
だが、その沈黙を最初に破ったのは、ザンだった。
「あ、こ、こら、くすぐったいってば」
ファーブがザンの目からこぼれ落ちる涙を、舐めていた。
それはまるで、彼女を慰めようとしているように見える。
「ファーブ……」
ザンの表情に、明るさがほんの少しだけ戻った。
それを確認しているかのような仕草で、ファーブはしげしげとザンの顔を見つめ、そして彼は、
「ミュウ」
と、可愛らしく鳴いた。
それはまるで笑っているかのようだ。
「……記憶が無くなっても、前のファーブさんと何も変わっていませんよ。
いつもザンさんのことを気遣っていて、支えていたファーブさんと……」
「……ああ」
そんなルーフの言葉に、ザンは頷いた。
確かにファーブの記憶は消えてしまった。
しかし彼のザンへの想いまでは、消えてはいないのかもしれない。
そして今のザンにならば分かる。
無くしたものは、またいつか取り戻すことができるのだということを。
ファーブの記憶が失われてしまったのならば、また築き上げていけばいい。
命がある限り、記憶はまた積み上げていける。
「そうだよな。
ファーブが全部いなくなった訳じゃない。
生きているだけでも充分だよな」
ザンは太陽の光にかざすように、ファーブを抱え上げる。
「また、一緒に……みんなと一緒に記憶を紡いでいこう!
今度は戦いの無い、楽しい記憶ばかりになるぞ!」
「ミュウ!」
ザンの言葉に応えるかのようにファーブは鳴いて、元気よく尻尾を振った。
その愛らしい仕草が、ザンとルーフの笑いを誘う。
そんな彼らの間を、温かく柔らかな風が通りすぎていく。
幸福な笑い声を乗せた風は、焼けた大地を癒やすかのように優しく撫でていった。
季節は、本格的な夏を迎えようとしていた。
明日は通院の為にお休みします。




