―用済み―
「くっ……!?」
掌が閉じない。
ティアマットの意志に反して、その指は関節を失ってしまったかの如く、曲がろうとはしなかった。
「まだ、生きておるのかっ!?」
ティアマットの顔が、憤怒の色に染まる。
「斬竜王めっ!!」
唐突にティアマットの腹が縦に割け、そこから何者かが吐き出される。
それは斬竜王ベーオルフの姿であった。
しかしその身体は、本来の彼よりも小さく痩せ細り、衰弱した病人のような姿となり果てていた。
「娘を庇うとは、この期に及んで小賢しい奴よ!
もう邪魔できぬよう、不必要な部分だけそなたに返してやったわ!
精気も筋力も殆ど残らぬ、それどころか、臓物すら一部欠損しているその身体では、最早何もできぬであろう!」
「う……うう……」
ティアマットはベーオルフに身体を返すと言いながらも、そこには生きる為に必要最低限の力すらも残さなかった。
彼に残されたのはあと数時間もあるまい。
しかもただの衰弱死ではない。
内臓がいくつも欠損している彼には、凄まじい苦痛が伴うだろう。
だが、ティアマットはここに至ってもまだ、一切の容赦をしなかった。
「もうそなたら親子の顔は、見飽きた。
この私の前から、いいや、この世界から消え果てよ!」
と、ティアマットが天へ向けて突き上げた両腕の先に、魔力を込めようとした刹那──、
「む……!」
彼女は何者かの接近に気付いて、そちらに視線を送る。
「ファーブニルか……!」
そこには凄まじいスピードでティアマット目掛けて飛ぶ、ファーブの姿があった。
だが、彼がティアマットに接触する直前で、
「!?」
空中で見えない何かに衝突したのか、その身体は弾き飛ばされる。
しかし彼はすぐに体勢を立て直して、再びティアマットに向かって飛ぶ。
だが、やはり何かに遮られてしまい、彼はそれ以上進むことができなかった。
「結界か!?」
ファーブは一瞬有り得ないと断じかけたが、そう結論づけた。
視認できない程度にしか実体化していない結界で、彼の行動を抑制できるはずはない。
しかし、ティアマットは光を屈折させるか、あるいはそれ以外の方法で、結界の姿を消しているようだった。
その証拠に次の瞬間には、ティアマットの周囲十数m四方を取り囲む結界の姿が、唐突に浮かび上がる。
「くっ!」
ファーブは結界の壁に両手の掌を添え、その接触面から術式を展開して結界の解除に取りかかった。
だが、ティアマットの張った強力な結界を魔法的手段によって、解除することは難しい。
ファーブよりも結界を形作るティアマットの方が、はるかに高度な魔法技術を誇っているからだ。
勿論、ファーブの本気の攻撃をもってすれば、結界を破壊することは可能なのかもしれないが、それではおそらく結界内のザン達も無事では済まない。
とはいえ、手加減した攻撃でこの結界を破壊することまず不可能だ。
だからたとえ困難でも、魔術による結界の解除を試みるしかない。
「オオオオオオォォォォーっ!」
ファーブは全力でティアマットの結界を解除しようとはしているが、結界は解除された部分から次々に再構成されていった。
しかしそれでも、ファーブの手の触れた結界面は少しずつ層が薄くなり、彼の指先の数ミリ程度がその内側に侵入することに成功する。
だが、たったそれだけの為に、彼が要した時間は5分余り。
全身が侵入する為には、まだかなりの時間が必要だろう。
(せめて、腕の一本でも侵入できれば、ティアマットに攻撃できるのに……!!)
しかしその時間は、もう残されていなかった。
「あははは……どうやらいくら頑張っても、無駄なようじゃな。
だから過去に言ったであろう、いかにそなたがずば抜けた身体能力を誇っていようとも、それだけでは私には遠く及ばぬと。
むしろ、その身体能力に頼り切って魔法の修練を怠ったツケが、今ここに出ておる。
親の言うことはよく聞いておくものだぞ?」
「黙れっ! 俺の身体を好き勝手に弄くり回しておいて、何が親だっ!
お前にとって俺の存在は、実験動物と大差無いだろう!
俺もお前を親だと思ったことなど無いっ!!」
「おうおう……悲しいことを言いよる……」
激昂するファーブに反して、ティアマットは涼しい表情を動かさない。
「しかし、そなたはその再生力といい、戦闘力といい、実に優秀な子ではあったぞ。
そなたのような子が増えてゆけば、我ら竜種は未来永劫安泰であっただろうに。
ただ惜しむらくは、我が意に添わぬことよな」
その言葉に、ファーブは怒りで毛を逆立てるかの如く、身体を膨張させた。
ティアマットの言葉は、彼にとって到底容認できるものではなかったのだから──。
「当たり前だ……っ!
貴様のより強き竜種を生み出す実験とやらの為に、俺の兄弟が何百も命を落としたんだぞ!?
いや、俺しか生き残れなかった……絶対に許さねぇ!!」
「ふん……我らが創造神より与えられた使命、『神々の黄昏の邪神」に対抗する為の力を育む為には仕方があるまい。
まあ、それも今となってはさほど意味など無かったと、実感をせざるを得ないがな。
あの御方は強大過ぎる……」
「意味が、無い……!?」
その時、ファーブの右腕が結界の壁を抜けた。
「ふざけるなっ!
俺達の苦しみと死に、意味が無かっただとっ!?
200年前は勝ち目が無かったから大人しくしていたが、もう勝ち目なんか関係無い!
絶対に貴様を倒すっ!!」




