―生還せし者―
シグルーンは泳ぐ。
周囲を水で囲まれていては、風の精霊の力を借りて行使する飛行魔法や、転移魔法は発動不可能である。
泳ぐしかとれる手段が無いのだ。
あるいは水の精霊に力を借りれば、容易くこの水塊から脱出する術はあるのかもしれない。
だが念入りなことに、この水塊内の水の精霊達は、リヴァイアサンの支配下にあるようだった。
水がシグルーンの行く手を遮るように、流れを変える。
(くっ…………!)
今、彼女を取り囲むのは、攻撃も、防御も、そして生存すらも許さない、水の牢獄であった。
(息が…… 早く……脱出しなけれ……ば)
意識が朦朧としてきたシグルーンは、藻掻くのをやめた。
これ以上無駄に動いて酸素を消費することは、得策ではないと悟ったのだ。
(かくなる上は……)
一か八か、自身の魔力を一気に放出して、周囲の水を吹き飛ばす――今のシグルーンに可能な脱出方法はこれしかなかった。
これ以上魔力を消費してしまっては、たとえこの水牢から脱出できたとしてももう戦えないかもしれないが、このままでは確実に溺れ死ぬ。
やるしかなかった。
しかし、シグルーンが魔力を放出しようとしたその刹那、彼女は周囲の異変に気が付いた。
(水の壁が薄くなっていってる!?)
いや、水が圧縮されているのだ。
(ああぁっ!!)
声にならない叫びと共に、シグルーンの口から空気の泡が大量に吐き出された。
周囲の水が恐るべき水圧をもって彼女を締め上げ、押し潰そうとしている。
『くっくっくっ……抵抗など許さぬ。
我が夫を奪った貴様らを、妾は確実に殺す!』
リヴァイアサンの顔が醜く歪んだ。
笑みを浮かべているのだろうか。
あるいは泣いているのかもしれない。
どちらにしても鬼気迫る表情であった。
シグルーンを襲う水圧が更に強まり、彼女の口から一際大きな気泡が吐き出される。
そしてそれを最後に泡は途切れ、続いてその口から吐き出されたのは血液だ。
水圧が彼女の肺を押し潰しつつあった。
(あ……ああ……ああ……)
シグルーンは為す術なく、水圧に押し潰されていく。
だが、体内の酸素が殆ど残っていない為に思考は寸断され、死を目前にしてもなお、愛しい者の顔を思い浮かべることすら彼女にはできなかった。
孤独のままの死――。
それはリヴァイアサンが意図したものではなかったのかもしれないが、シグルーンにとっては最も受け入れがたい末路である。
まさに今、最高にして最悪の形で、その復讐が成就しようとしていた。
だが――、
『なっ……!?』
シグルーンを包む水塊が唐突に弾け、元の何の変哲もない水に戻って地面に降り注ぐ。
『誰ぞ、邪魔をするは!?』
リヴァイアサンが叫ぶ。
水の牢獄は最早、シグルーンが内部から破れるようなものではなかった。
ならば外部から、何者かが干渉したのは疑いようもない。
リヴァイアサンは弾ける水塊の水飛沫の向こう側に、黒い竜の姿を見つけた。
『闇竜!?
しかも三首とは……王族かっ!?
貴様ぁ、妾が何者か知っての狼藉かぁっ!!』
『何者かなんてどうでもいい!
よくも御館様を……許さぬ!!』
怒号するリヴァイアサンに匹敵するほどの怒りを露わして、三首の闇竜、アジ・ダハーカが吠える。
「ク……ロ……?」
弾けた水と共に地に落ちて仰向けに倒れていたシグルーンは、霞む意識の中、はるか上空に見慣れた闇竜の姿を見た。
その瞬間、意識が鮮明に覚醒してくる。
「クロっ!」
シグルーンはガバリと跳ね起き、クロ目掛けて飛び上がる。
そして、あっと言う間にクロの真ん中の頭に飛び乗ると、
「来るのが遅いわよ、このバカ! バカっ! バカっ! バカっっ!」
と、クロの頭を殴る、殴る、殴る、殴り続ける。
『す、スイマセン、御館様。イタっ!
俺も、ちょっと前まで、アタっ!!
瀕死だったんス。
邪竜王の攻撃から逃げるのもギリギリで、ボロボロにされてたんスよ。
それをやっと回復させて来たんですから。
か、勘弁してくださいよっ!!』
クロは必死に弁明するが、シグルーンはポカポカとひたすらに彼を殴り続けた。
ただ、その勢いは徐々に弱まってゆき、やがてゆっくりと止まる。
「心配したんだから……!」
そう呟いたシグルーンの目には、わずかに涙が滲んでいた。
『でも、必ず生きて帰るって約束は守りましたよ。
アタっ!?』
苦笑気味にそう言うクロの頭を、シグルーンは更にもう一発殴り付けた。
「いいでしょう。
今回はそれで許してあげるわ。
でもその代わり、私にここまでのことをしでかしてくれたあの竜を、ぶっ潰す手伝いをしなさいよっ!」
『もとより、そのつもりですよ』
「よし 行くわよクロ!」
『はい!』
今死にかけたばかりとは思えないほど、生き生きとした表情でシグルーンは叫ぶ。
その号令を受けて、クロは彼女を乗せたままリヴァイアサン目掛けて飛んだ。




