―脱 出―
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ルーフの視線の先で、ファーブの丸い身体に亀裂が走った。
まるで卵の殻を破り、中から何者かが生まれ出ようとしているかのように。
いや、まさにそれは孵化そのものだった。
目玉の外殻を破り中から現れたのは、小さな竜の姿であった。
その姿にはザンも見覚えがあった。
サイズこそ違えど、形はファーブの本来の姿と寸分違わない。
だがその小さな姿も、瞬時に元の巨大な姿へと膨らんでゆく。
次の瞬間、ファーブはザン達を抱え上げると、猛スピードで飛び上がった。
周囲は壁に阻まれているが、竜の強靱な肉体にとってはさほど飛行の障害とはならない。
彼は壁を突き破り、城の外に飛び出した。
「ファーブニルめ……。
だが、逃しはせん!」
ティアマットは小さく舌打ちする。
だが、その攻撃の手は片時も止まらない。
彼女はファーブ目掛けて、両の掌を突き出し、
「冥王火っ!!」
巨大な黒い炎の塊を撃ちだした。
しかし、その炎の進路上を何者かが遮る。
「クロ!?」
ザンは遠ざかるタイタロスの城の前に、クロの姿を見つけた。
クロは全身に高密度の結界を纏い、自らの身体を盾としてザン達を狙う黒い炎を遮る。
「グオオオォォォォォォォォォーッ!!」
しかし、テュポーンの術を無効化した彼でさえも、そのティアマットの術を解除することはできないようだ。
それどころか、徐々に彼の身体は焼け焦げていく。
「ファーブっ、戻れ!
あのクロって奴がやられるっ!
それに叔母様だって、近くにいるかもしれないっ!!」
ザンは悲痛な叫びを上げた。
もう彼女は、誰かが犠牲になる姿は見たくない。
しかし――、
「駄目だっ!!」
ファーブは躊躇無く言い放つ。
「ファーブっ!?」
「ファーブニル殿!?」
皆の間から、非難めいた叫びが上がる。
だが、ファーブは、
「今戻れば、全員死ぬっ!」
と、淀みなく確固とした口調で答え、それが厳然とした事実であることを皆に思い知らせた。
次の瞬間、巨大な爆炎がタイタロスの城を完全に飲み込み、焼き尽くした。
恐らくそれは、クロも例外ではあるまい。
「あ……ああ……」
メリジューヌが押し殺したような、嗚咽の声を漏らした。
辛うじて残っていたかつての故郷の面影は、今まさに完全に潰えたのだ。
だがこのまままでは、彼女達もタイタロスの城と同じ運命を辿ることになるだろう。
爆炎は城を飲み込んだだけでは飽きたらず、高速で飛ぶファーブのもとへも押し寄せてくるのだ。
「クッ!」
ファーブは更に飛行速度を上げた。
既に並の人間ならば、命に関わる速度である。
事実、ルーフは完全に気絶していた。
そのことに気付いたザンは、慌ててルーフと、そしてまだ一応意識を保っているフラウヒルデへ結界を施して、音速の負荷から守った。
もう少し気付くのが遅れていれば、ルーフの身体はバラバラに吹き飛んでいたかもしれない。
ちなみにメリジューヌは、自前の結界で堪え忍んでいる。
まさにそれは、常人ならば「死の飛行」と言えた。
それでもファーブは、この速度を落とす訳にはいかなかった。
もしも、あの爆炎に飲み込まれれば、より致命的なダメージに繋がりかねないのだ。
ファーブは地面すれすれに飛び、後に続く衝撃波が巻き上げた土砂によって、背後に迫る爆炎を散らす。
だが、完全にその勢い消せる訳ではない。
むしろ、焼け石に水だ。
しかしこの爆炎から逃れる手立てが、皆無な訳でもない。
「よしっ!」
正面に迫る切り立った山に沿って、ファーブは急上昇した。
そして山を越えて、その裏側に回り込む。
爆炎は山々に阻まれ、その勢いの殆どを上空へと逃がした。
多少はファーブ達のもとにも炎が吹き付けてきたが、直撃でなければ結界でどうとでもなる。
取り敢えず一難は去った。
後は爆炎の勢いが消えるのを待ちつつ、ティアマットが追って来ないことを祈るばかりだった。
誰もが息を殺して沈黙を守っている。
いや――、
そんな中、ザンとメリジューヌだけは嗚咽をもらしていた。
まだ完全に危機を脱したとは言いがたいが、もう平静を保ってはいられなかった。
「なんで……なんだよ……」
あまりにも多くの命が理不尽に奪われた。
メリジューヌは故国と父を奪われ、そしてザンは父とヒイナギとの再会の喜びも奪われた。
この仕打ちにザンは、どうしても納得できなかった。
しかし、今の彼女には泣くことしかできない。
人前で涙を見せることを嫌っていた彼女であったが、溢れ出る涙を止めることはできそうになかった。
ティアマットは悠然と大地を踏みしめていた。
「ふん……邪魔が入ったおかげで逃がしてしもうたわ。
まあ、良い。
楽しみは後にとっておくものよ……」
そんな風に独白する彼女の周囲には、全てが焼き払われて何もない。
いや――、
「――!」
ティアマットの表情が訝しげに動く。
彼女のすぐ側に、背に黒い翼を持つ、7、8歳くらいに見える黒髪の少年がいたからだ。
「ふ~、なかなか凄い爆発だったねぇ」
少年の琥珀色の瞳が、楽しげに輝いた。
「何者じゃ、そなたは?」
ティアマットが問う。
この場に彼女以外の生存者がいることは、どう考えてもおかしい。
少なくとも、四天王に匹敵する実力があったとしても、あの爆炎の中では無事では済まされないだろう。
だが、平然と少年は存在している。
「ボクは伝令役だよ」
少年は、そう言った。




