―闇の従者―
メリジューヌの悲鳴が上がる。
だが、シグルーンは力強く笑った。
それは自らの策が成功することを確信してなのか、それとも死を覚悟したが故なのか――。
そして激しい衝突音が、周囲に響き渡った。
(衝突……の音……?)
思わず目を閉じていたメリジューヌは、その不自然さに気付いた。
もしもリチャードの攻撃がシグルーンに到達していたのならば、あのような硬質の物体同士が激しく衝突するような音ではなく、もっと肉を貫くような水気を含んだ音が発生したはずである。
状況を確認しようと、メリジューヌはゆっくりと目を開ける。
「!!」
彼女が目の前の状況を理解するのに、数秒の時を要した。
だが、実際には一目瞭然の状況だった。
ただあの一瞬の間で発生するには、不可能とも思える状況であった為、理解するのに時間がかかったのである。
「いつの間に……」
見知らぬ男の姿を目にとめて茫然としていたメリジューヌの意識を、男の声が現実に引き戻す。
「正気ですか、御館様!?
敵前で無防備だなんてっ!!」
「やぁ~ねぇ、クロ。
あなたがいるのを知っていたから、無防備でいたのよ。
よくぞ敵の攻撃から、主人を守ったわね。
えらいえらい」
シグルーンは上機嫌で彼女の前に立つ、長身黒衣で浅黒い肌を持つ男――クロの背をペシペシと叩いた。
クロはキョトンとした表情となる。
「は、はあ……そうなんですか。
しかし、俺が間に合わない可能性は、考えなかったんですか?」
「その時は、後で酷いことになっていたわよ、あなたが」
「………………」
シグルーンは命懸けで、部下の忠誠心を試したということなのだろう。
だからこそ期待を裏切られた時の怒りは、大きかったに違いない。
それを察したクロは、顔を青く染めた。
色んな意味で恐ろしい。
「ともかく、今の私は本調子じゃないから、ザコの処理はあなたに任せるわ。
手加減の必要は無いわよ」
「……ハッ、御意!」
と、クロは表情を引き締め、地に倒れ伏しているリチャードへ向き直った。
「ぐ……おのれっ!
毎回毎回、アースガルの関係者は、肝心なところで横槍を入れやがるっ!!」
と、リチャードは憎々しげに呻きながら身を起こし、そして顔についた靴の跡を服の袖で拭った。
どうやらクロに蹴倒されたらしい。
これにより、シグルーンは難を逃れたのである。
「もう容赦せんっ!!」
リチャードはシグルーン達に向かって疾駆する。
それに対してクロは迅速に戦闘態勢へと移行しつつ、リチャードの前に躍り出た。
「ふん、ザコの分際で、御館様に逆らおうとは身のほど知らずな……」
クロは両の拳に闘気を集中し、まずは右の拳をリチャード目掛けて打ち込む。
「――っ!!」
大気を抉るかのような圧力を伴った、重い一撃――。
しかしリチャードは、それを危なげなく躱し、瞬時にクロの背後に回り込む。
クロはその動きに反応し、振り向きざまに左の手刀を走らせるが――、
「遅いっ!」
リチャードはその手刀を攻撃も寸前で躱し、逆にクロの脇腹に左右の手刀を突き入れ、体内に進入させた指を一気に伸ばす。
「ガッ……!!」
クロは血の混ざった短い呻き声を上げる。
その背からは10本の指が、槍の如く突き出ていた。
しかし、人体に対して致命的ともいえる攻撃を繰り出してなお、リチャードの攻撃は止まらなかった。
彼も既に人外の存在だ。
この程度で死なない者が存在するということを、理解しているのだろう。
リチャードはクロの身体から指を瞬時に引き抜き、そして至近距離から「烈風刃」を放つ――しかもただの衝撃波ではない。
寄生されたヴリトラの血の力か、膨大な熱量を伴った衝撃がクロへと叩き込まれた。
結果、クロの決して小さくもない身体は、炎に包まれながら軽々と吹き飛ぶ。
「つ……強い!!」
メリジューヌは、呻き声にも似た驚愕の声を上げる。
今のリチャードの攻撃を見る限り、自身に勝ち目がある相手だとは思えなかった。
彼女にはあの変則的な指の攻撃を完全に見切る自信は無いし、しかも力においては彼女の数倍は開きがあるだろう。
だが、あのクロという男が倒れた今となっては、この場でリチャードに対抗できそうな者はメリジューヌ以外にはいない。
彼女は緊張に満ちた面持ちで槍を構えるが、それをシグルーンは「下がっていなさい」と、手で制した。
「シ、シグルーン様……?」
戸惑うメリジューヌであったが、リチャードの視線が彼女達に向いたが為に、思わず身を竦ませる。
やはり彼女には荷が重い相手だ。
それを察したのか、勝ち誇ったようなリチャード。
「さて、次は貴様らが地獄へ行く番だ……」
「あなた、ちょっと気が早いわよ」
だが、そんなリチャードの宣言を、シグルーンは余裕の表情で返した。
「なに……?」
「クロ! 手加減は必要無いって言ったはずよ?」
「ハ、ハッ、申し訳ないです」
と、クロは恐縮しながら、とても軽傷には見えない身体をムクリと起こした。
「貴様……まだ動けるのか?」
「見た目ほどダメージは無いですよ」
そう微笑みながら、クロは危なげない足取りで立ち上がる。
同時に彼の負った傷は、瞬時に再生されていった。
「しかし、御館様が『手加減の必要無し』と言うのも頷ける。
少々侮っていたようだ」
そんなクロの感心したような言葉に、シグルーンはすぐに突っ込みを入れた。
「バカ! あんなの大したことないただのザコよ!
生意気だから、手加減するなって言ってるの。
とことん酷い目に遭わせちゃいなさい!!」
「は……はあ。
では、そうします」
クロは再び恐縮したような表情をして、頭を下げる。
「き、貴様ら……」
そんな緊張感の足りない主従のやり取りは、リチャードの頭に血を上らせるには充分な効果があったようだ。
怒りが頂点に達した彼の目には紅い光が灯り、理性の色が極端に薄くなる。
まさに獣だ。
「この俺を馬鹿にするのも、いい加減にしろっ!
今すぐその口を二度と利けなくしてくれるわーっ!!」
リチャードはクロ目がけて疾駆する。
だが、クロは動じない。
「確かに評価できるだけお前は強い。
しかし所詮は、竜の血による仮初めの能力でしょう?」
「だが、四天王の血だぞっ!」
「四天王がどうした。
確かに奴らは気絶するほど怖いが、俺は御館様の方がもっと怖い!」
(……なんて情けないことを、堂々と宣言する人なのでしょう)
と、メリジューヌは、半ば感心混じりに呆れた。
そして「そんなに怖いのか」と、チラリとシグルーンを横目で見るのだった。




