―前 兆―
今回から8章です。
「ほらほら、もう泣かないの。
雷が怖いなんて、やっぱりリザンちゃんもまだまだ子供ねぇ」
「……っていうか、なんで、母様は雷に撃たれても平気なの?」
「それはね、直撃の寸前に避けたからよ」
震えながらの私の問いに、母様は身体の所々を煤けさせながらそう言った。
服の一部は、焦げてさえいる。
「よ、よけて?」
私は目を丸く見開いた。
本当にそんなことができるのだろうか?
あの一瞬の閃光にしかすぎない落雷を避ける――どう考えても無理っぽい。
私の目には母様が、落雷の直撃を受けたようにしか見えなかった。
そう、突然の雨を大木の下でやり過ごそうとしていた私達の頭上へ、雷が落ちてきたのだ。
母様は私を突き飛ばした直後、凄まじい電流の洗礼を受けたかに見えた。
でも、多少は火傷を負っているようだけれど、確かに元気そうだ。
「うん、剣を避雷針がわりにするのがコツよ。
いや~、でも、さすがにちょっと怖かったわね。
もう1度やれって言われても、もうできそうにないわ」
母様の隣では、ヒイナギおばさんが「1度でも無理だ」と、呻くように言った。
だけど、目の前で不可能を可能にされてしまっては否定のしようがないのか、かなり複雑な表情をしていた。
私も思わず、背筋に冷たいものを走らせた。
落雷を間近で目撃してしまったことが怖かったのか、それとも母様が怖かったのか……たぶん両方だという気がする。
世界中の誰にも真似できないようなことをやってのけた母様の、底知れぬ能力に恐怖したのかもしれない。
とにかくこの時私は、二度と雷に遭遇したくないと思った。
トラウマになったらどうしよう……。
「まったく……無茶苦茶な奴だな。
リザンはこんな非常識な大人にはなるなよ?」
ヒイナギおばさんがそう言った。
母様を馬鹿にされたような気がしてちょっと面白くなかったけど、おばさんが言っていることも一理あるような気がして私はコクリと頷く。
「ウンって、リザンちゃん!?」
母様はショックを受けたような顔をしていたが、それを見てヒイナギおばさんが笑う。
「よしよし、リザンは良い子だな」
おばさんにそう言われて私は微笑む。
私にこんな風に話しかけてくれるのは、父様と母様以外ではヒイナギおばさんと竜人達くらいだった。
話しかけてくれるだけで、私はとても嬉しかった。
そのことは今でもよく憶えている。
……アレ、今でも?
……そうか、もう昔のことなんだ。
……この人も、もういないんだっけ……。
「ザンさん、起きてください!
ザンさんってば!」
「ん……あれ?
母様は?」
ザンが目を開けると、ルーフの顔が間近に飛び込んできた。
「何を寝惚けてるんですか。
しっかりしてくださいよ!」
「……えっと」
ザンは周囲を見渡しつつ、上半身を起こした。
ルーフにファーブ、そしてフラウヒルデと、見慣れた面々が彼女を取り囲んでいる。
「……?」
どうやらまだ状況が把握できないのか、ザンはきょとんとした表情で首を傾げた。
なんで自分は眠っていたのだろう?――と。
「っと……ああーっ、テュポーンはどうしたっ!?」
そして唐突に気絶する前の記憶が蘇ったのか、素っ頓狂な声を上げた。
「テュポーンなら、タイタロスの都で何かあったらしくてな。
血相を変えて飛んでいってしまった」
ファーブの言葉を聞いて、ザンは安堵したように溜め息を吐いた。
「……そ、そうか。
それで私は助かったんだな?
てっきり走馬燈でも観ているのかと思ったよ」
「いや、お前はあのシグルーンの連れに、助けられたんだぞ」
「は?」
ザンは小さく眉根を寄せた。
「そうですよ、たぶん母上?……の連れが、あの雷の術を解除したのです。
そうでなければ、今頃従姉殿は黒焦げでしたよ」
「あの術を解除したぁ!?
そんなことできるのかぁ!?」
フラウヒルデの言葉に、ザンは驚愕する。
「結界で防御するだけならまだしも、術の解除となるとかなりの魔法技術が必要だからな。
しかもテュポーンの術だ。
おそらく四天王に近い実力が無いと不可能だろう。
少なくとも、俺は魔法が専門じゃないから無理だな」
「僕はもう少し勉強すれば、精霊の力を借りてなんとかなりそうな感じでしたけど……。
あの雷の術を使うだけなら、威力の方は保証できませんけど、今すぐにでもイケますよ。
やって見せましょうか?」
「…………マジか、オイ」
ルーフの言葉に、ファーブは絶句しかけた。
ザンは「勘弁してくれ」 と、ブンブン首を振っている。
ともかく、あのクロという男はかなりの実力者であることは間違いない。
おそらくその正体は人間ではあるまい。
「一体何者なんだろうな……。
で、そいつは何処に行ったんだ?」
「いや、さっきまで気絶していたんだがな……」
「気絶?」
ザンは胡乱げな表情で聞き返す。
自身の命を救ったほどの実力者が、なぜ気絶しなくてはならなかったのか、その理由が分からない。
「いや……詳しいことを話すと、長くなるのだけどな。
それは取りあえず置いておいて、あいつなら目覚めるなり『都の様子を見てくる』と、偵察にいったよ。
よく働く奴だ」
「母上は部下の躾には厳しいですからなぁ」
(その分、身内には甘いですよね)
と、フラウヒルデの言葉に、ルーフは心の中で突っ込みを入れる。
「ともかく、ザンも目覚めたことだし、俺達も先を急ごう。
何かとんでもないことが起こっているようだからな」
「ん……そうか」
ファーブの言葉に、ザンはのんびりとした口調で答える。
気絶していた所為で状況がよく把握できず、その為に危機感があまり無いらしい。
しかし、そんな風に彼女がのんびりとしていられる時間は、すぐに終わりを告げた。
「なっ!?」
一同は息を呑んだ。
周囲の大気が小刻みに震え、先程のテュポーンが放った雷の術と同等――いや、それをはるかに凌ぐような巨大な魔力の波動が、ザン達のもとへと押し寄せて来たからだ。
「な……何だ……あれは……!?」
そして一同は、神を畏れるかの如く、緊張に満ちた表情で空を仰ぎ見た。
男は険しい表情で空を睨んでいた。
空は夕焼けのそれのように、紅く燃えている。
それはまるで、世界そのものを焼き尽くそうとしているかのように、邪悪な意志に満ちていた。
男は暫しの間、殺気に満ちた表情で空を凝視していたが、不意に笑みを浮かべた。
もしもその笑みを誰かが見ていたとすれば、その男の笑みと紅く燃える空のどちらに、より禍々しい気配を感じたのだろうか。
それほどまでに男が浮かべた笑みには、鬼気に満ちていた。
唐突に男の周囲が揺らぐ。
揺らぎ、ざわめき、そして渦巻いた。
それはまるで、水を張った器の底に穴が空き、そこへ水流が渦を巻いて吸い込まれるのに似ている。
いや、まさに空間に空いた裂け目に、あらゆる物が飲み込まれていく。
やがて男の姿も、その渦の中へと消えていった。
そんな訳で、ザンの雷が苦手な理由でした。




