―何かにならなくても―
「――私は諦めませんからね!!」
乱暴に閉じられた扉を、テュポーンはぼんやりと眺めていた。
「……おはよう、テューポエウス」
不意に背後から声をかけられたテュポーン――テューポエウスは人間界での名だ――は、声の方に視線を向ける。
そこには10代半ばの、少女の姿があった。
「エトナか、早いな」
「早朝から大声で口論されれば、嫌でも目が覚めると思うの」
と、エトナと呼ばれた少女は、苦笑気味に言う。
エトナがテュポーンに拾われてから、かれこれ6年は経っただろうか。
拾われた当時は骨と皮ばかりで、今にも餓死しそうな状態であった彼女も、今では成熟した女性特有の丸みを身体に帯びつつあり、健康的な魅力を身につけていた。
ただ、子供時代の栄養不足が祟ったのか、身長はなかなか伸びず、遠目には子供のように見えてしまうところが、彼女の悩みどころであるようだ。
その証拠に、椅子に座っているテュポーンと目線が殆ど同じ高さであることに気づいた彼女は、ほんの少し複雑な表情となった。
「さっきの人……また、テューポエウスに王位に就いてほしいって?」
「ああ……断ったよ」
テュポーンは全く未練も無さそうに答える。
「前々から思っていたんだけど、何でそんなに王様になるのが嫌なのかな?」
「嫌……と言うか、私に相応しいとは思えなくてな」
「そうかな?
結構適任だと、あたしは思うんだけど」
と、エトナは小首を傾げる。
そう、適任のはずだ。
なにせ今彼女の前にいる男は、無敵の傭兵として多くの人々を救った英雄だ。
いや、出会った直後に傭兵から引退してしまったので、エトナは噂でしか知らないが、その実態が噂の話半分だったとしても、十分に王の資格があると彼女には思えた。
「だがな……王に名乗りを上げている者は、他にもいるのだ。
私が王位を望めば、必然的にその者達と戦うことになるだろう。
そうなればどれだけの血が流れるか……」
「でも、テューポエウスが何もしなくたって、他の人が戦いを始めちゃったら結果は同じじゃないかな。
それならテューポエウスが、さっさと決着を付けた方がいいかもよ?」
「そうかもしれぬが……。
それでも私は人の命を奪う覚悟が、無いのでな……」
そして、テュポーンは押し黙る。
彼はエトナの父を死に追いやってしまったかもしれないという罪悪感から、まだ逃れられずにいた。
そんな彼の想いを知っているからなのか、エトナは微笑み浮かべる。
テュポーンは彼女の父の命を奪いはしたが、その償いをしようとする姿勢は真摯なものだった。
だから最初は許せないものがあった彼女でも、今は彼の思いを理解している。
「うん、それでいいよ、テューポエウスは。
確かに力があるのに使わないのは、勿体無いような気もするけど……。
それで助けられる人がいるのなら、助けた方がいいような気もするけど……。
その為にテューポエウスが危ない目に遭ったり、手を汚したりするのは何か違うもの。
それにさ……」
そしてエトナは、閉ざされていた窓の扉を開ける。
その先には、一面黄金色の風景が広がっていた。
「……いい天気!」
エトナは朝日を浴びて、大きく伸びをした。
そしてテュポーンの方へと振り返る。
「テューポエウスが育てたこの麦畑。
これだけの麦があれば、沢山の人が飢え死にしなくても済むものね。
別に戦わなくたって、王様にならなくたって、人は沢山助けられるもの。
テューポエウスは今のままでもいいよ」
そんなエトナの言葉に、テュポーンは笑みを浮かべた。
そして、思う、
(再び私が戦うことがあるとすれば、それはエトナの為だろう……)
――と。
「もし、私が人間ではなかったとしたら、どうする?」
更に数年が過ぎたある日、テュポーンは何気ない調子で、そうエトナに問いかけた。
エトナも薄々は感じているはずだ。
いつまでも年を取らず、若さを保ったままのテュポーンの異常さに。
しかし彼女は、気付かないふりをし続けてくれた。
「テューポエウスが人間じゃなかったら?」
エトナはまるで用意していたかのように、あっさりと答えた。
「どうにもしないよ。
だってテューポエウスはテューポエウスだもの。
それに今まであたしを養ってくれたのは誰?
あなたでしょ?
その恩を忘れて、あなたが人間じゃないからって、掌を返すような恩知らずにあたしが見えて?」
テュポーンは思わずポカンとする。
彼は今の答えとは正反対のものが返ってくることも、予想していたからだ。
だがエトナからの答えは、彼の予想を全て覆すものだった。
しかしそれでいて、彼が最も聞きたかった答えだったのかもしれない。
「…………いいや」
「でしょ?」
エトナは満足そうに頷いた。
未だに背は低いが、その容姿にはもう幼さは無く、立派な大人の女性だ。
しかし今のその表情は、何処となく子供のようにも見える。
彼女はその時々に色々な一面を見せる。
(人間とは本当に不思議なものだ……)
未だテュポーンは、人間の全てを理解してはいない。
だが幾つかの、「人の心」というものを手に入れた実感はある。
今、目の前の女性に対する想い――これもまた、その1つに違いない。
(確かに私はお前を養ったかもしれないが……人として育まれたのは私の方なのかもしれない)
テュポーンはエトナを心の底から愛しく思い始めていた。
更に数年後、テュポーンとエトナの間に、メリジューヌが生まれた。




