―繰り返したくない想い―
月は淡い光を放ち、夜の闇を薄めている。
それは太陽から比べればささやかな光にすぎないが、だからこそ優しく大地を照らし出し、そして夜空を仰ぎ見る者へと静謐な感動を与えてくれる。
しかしその月の光を浴びてなお、大地に横たわる闇の世界――広大な樹海があらゆる光の侵入を阻み、闇を停滞させていた。
おそらく陽光の下でさえも、この森は闇の気配を色濃く残すだろう。
そんな森を横断する小さな小道の上に、淡い光が揺らめいていた。
淡いとはいえ、本来光の侵入すらも容易ではないこの空間において、際だつ眩さだと言えよう。
更にその光には、底冷えする闇の冷たさを和らげる、温もりも秘めている。
それは炎の揺らめきだった。
パチパチと爆ぜ、火の粉を舞わせる焚き火の炎である。
道の真ん中に焚き火というのもおかしな話だが、こんな鬱蒼とした森の中では下草が多く、焚き火を行えるような場所はなかなか見つからない。
だから草の無い路上で焚き火を行っているようだ。
まあ、昼間でさえ人通りの殆ど無いこの道では、さほど通行の邪魔にもなるまい。
だが、旅慣れた者でなければ、なかなかこのような発想は思いつかないだろう。
それだけこの焚き火をおこした者は、経験豊富だということの証明である。
その焚き火の前に座り込む者が1人──。
まだ若く長身の男だ。
その整った顔立ちと、長く流れるような黒髪を見た者は、異性ならずとも溜め息を禁じえないだろう。
多くの者が憧れ求める、理想的な容姿をしている。
しかしそれと同時に、何か近付きがたい気配を男は漂わせていた。
その身体には物々しく重厚な鎧を纏い、傍らには人の身の丈はありそうな大剣――。
なによりも焚き火の炎の灯りに照らされながらも、男のその表情は憔悴と悲しみと絶望に凍えている。
炎の温もりでさえも、その冷たさを和らげることはできないようだった。
男の名はテュポーンという。
タイタロス皇国を建国以来統治し続けてきた、偉大なる皇王である。
そんな彼が、この何人たりとも足を踏み入れぬような、広大な森の中にただ独り──。
通常は有りえないことだと言っていい。
「メリジューヌ……何処にいる?」
テュポーンは消え入りそうな声で呟き、天を見上げた。
しかし木々に覆われている為に、空は殆ど見えない。
彼は重い閉塞感を覚え、苛立ちに顔を歪める。
テュポーンは部下に国を預け、単身で行方不明となった娘の所在を探ったが、何も見つからなかった。
メリジューヌ達が襲撃を受けた──その痕跡すらもだ。
当然娘の所在はおろか、生死すらも確認できない。
何者かがあらゆる手掛かりの痕跡を、巧妙に隠してしまったのだろう。
「くっ…………!」
テュポーンは小さく呻く。
メリジューヌに与えたアースガルへの偵察任務は、さほど危険が無いものだと彼は判断していた。
アースガル城城主のシグルーンは、全く話の分からない相手ではないので、たとえ捕縛されるようなことになっても、そうそう悪い扱いはしないだろう――と。
事実、メリジューヌ達は何の咎めも無く、それどころか賓客として歓待され、無傷で解放された。
だが国への帰路の途中、メリジューヌ達は何者かに襲撃された。
そしてその襲撃者は、おそらくエキドナだろう──と、テュポーンは考える。
エキドナもテュポーンを敵に回した時の恐ろしさが、分からぬ訳ではあるまい。
それにも関わらず、まさか彼女がこのような暴挙に及ぶとは、彼にも予想外のことであった。
それでも今回のことは、明らかに彼の判断が甘かったことに変わりない。
「エキドナめ……何を企んでいる?
……やはり斬竜剣士の女と戦わねばならぬのか……?」
いくら捜したところで、メリジューヌの所在が掴めないとなると、最早それしか道が無いようにテュポーンは思えた。
エキドナがザンの姿に化けてメリジューヌを襲った以上、彼女の狙いは両者を敵対させることであったに違いない。
しかも、エキドナは自らの正体を隠してはいなかった。
その大地を操る攻撃は、エキドナを知る者なら真っ先に彼女を連想する。
それをあえて使ったということは、彼女は言外に、
「あなたの娘を襲ったのはあたし。
もし娘を無事に返してほしいのなら、斬竜剣士の女を始末するのよ」
――こう言っているのだ。
勿論、そんな彼女の策略にテュポーンが乗ったところで、メリジューヌが無事に戻ってくる可能性は決して高くない。
既に生きていない可能性もある。
だが、このままメリジューヌが生きて戻らなければ――いや、たとえメリジューヌが無事に戻ったとしても、テュポーンはエキドナをもう許さない。
必ずや捜し出し、彼女を引き裂こうとするだろう。
それはエキドナも、充分に承知しているはずだ。
だから彼女は、テュポーンに対しての切り札となり得るメリジューヌを、人質として生かしている──と、彼は考えている。
いや、そうであってほしいと願っている。
だが、たとえメリジューヌが無事だとしても、今は巧妙に身を隠しているであろうエキドナを捕捉することは難しく、当然メリジューヌの救出も困難だ。
そのことに時間を費やした結果、エキドナの不興を買ってメリジューヌが害されることだけは避けたい。
彼女が感情的に後先考えない行動に出る傾向にあることは、テュポーンも熟知していた。
「やはり、あえて奴の策に乗るしか無いな……」
テュポーンがザンを倒せば、エキドナ自らがメリジューヌを伴い、必ずや彼の目の前に現れるだろう。
そして今度は、娘の命を盾にして、邪魔者となったテュポーンを消しにかかる。
(その時こそが、メリジューヌを救う唯一のチャンスか……)
勝つ見込みが不確かな賭けである。
しかもその賭けに、テュポーンが乗らざるを得ないことを計算して、エキドナは動いているはずだ。
おそらくまだまだ多重の罠が、仕掛けられているに違いない。
「だが……この私を敵に回しておいて、無事にいられると思うなよ、エキドナ……っ!!」
テュポーンの瞳は、殺気によって怪しく輝いた。
しかしその瞳は、すぐに悲しみの色に彩られる。
エキドナに対する怒りよりも、娘の安否に対する想いの方が強いのだろう。
「…………もうあんな想いはしたくないのだ……!
メリジューヌを守ってやってくれ、エトナ……!」
テュポーンは苦痛に耐えるが如く、表情を歪めた。




