―朝の惨劇―
寝ぼけたザンは、フラウヒルデの指に噛みついた。
その顎の力は、あらゆる猛獣よりも上だろう。
これが常人の指ならば、とっくに切断されていたかもしれない。
「い、いたたたたたたっ!?
従姉殿、それ食べ物じゃありません!
はなしてくださいーっ!!」
必死でザンを引き離そうとするフラウヒルデ。
しかしザンは、
「いぎっ!?」
逃してなるものか──と、更に顎の力を加え、ゴリゴリとフラウヒルデの指を噛み締めている。
「痛い、痛いっ!
血が出てるっ!!
はなしてぇぇぇーっ!!」
たまらずにフラウヒルデは、腰に帯剣していた剣を抜き、その柄頭をゴスゴスとザンの頭部へと叩き込んだ。
しかし、彼女はまだ口を開こうとはしない。
まさにスッポンの如し。
「――――っ。
御免っ!!」
ついにこらえ切れなくなったフラウヒルデは、渾身の力と闘気を込めて、ザンの額に剣の柄頭を叩き込む。
その衝撃で万力のように締め付けていた顎の力が緩み、ようやく彼女は解放された。
そして次の瞬間、フラウヒルデは一目散に部屋を飛び出し、隣の部屋へと駆け込んだ。
「ルーフ殿っ、ルーフ殿ぉーっっ!!」
「んあ?」
すっかり熟睡中であったルーフは、半分夢の中にいるような表情で身を起こす。
「ル、ルーフ殿っ!
か、噛まれましたっ!!
は、早急に治癒の魔法をっ!!」
「噛まれた……?
虫か何かにですか?」
と、彼は寝惚けながら、差し出されたフラウヒルデの手を見遣るやる。
そして、一気に目が覚めた。
「なっ、骨が見えているじゃないですかっ!?
狼にでも噛まれたんですかっ!?」
「いや……従姉殿に……」
「ザンさんに!?」
すっとんきょうなルーフの声が上がる。
顔にはありありと、困惑の表情が浮かんでいた。
まあ、当然だろう。
「あ、いや、それより早く治癒魔法をかけないと……。
大丈夫ですよ、これくらいなら傷も残しませんから」
「か……かたじけない……」
フラウヒルデは深々と頭を下げた。
そして、ルーフのことを、少なからず旅のお荷物だと思っていた自分が、恥ずかしくなった。
「済みませんルーフ殿……。
これからもどうかよろしくお願いします」
そう言われてルーフは、
「何を今更改まってるんですか?
僕の方こそ色々と迷惑をかけているかもしれないけど、よろしくお願いしますね」
と、微笑んだ。
全く邪気の無い笑顔だ。
フラウヒルデは思わずその笑顔に圧倒され、自身の小ささを感じてしまう。
だから彼女は、ちょっと泣きそうになった。
「…………え、何、この血?」
血に染まった枕やシーツを眺めながら、ザンは茫然としていた。
目が覚めたら視界が血の海(ちょっと大げさ)と化していて、かなりビックリした。
その驚きがまだ抜け切らない。
「む~……アレは終わったばかりだから、まだのはずだし……鼻血?
いや違うなぁ。
アレ? なんで私、頭から血を流してんの?」
ザンは身体の何処かに怪我をしているのかと思い立ち、それを確かめていると、額にヌルリとした感触があることに気がついた。
なにやら、裂傷を負っているようだ。
どうやらフラウヒルデの叩き込んだ打撃は、結構な威力があったらしい。
おそらく並の人間ならば、頭が跡形も無く吹き飛んでいても、おかしくはなかっただろう。
実際、ザンが再生能力を有しているにも関わらず、その傷が未だに塞がっていないのはその証明だといえる。
ひょっとしたらその打撃の所為で、ザンは今まで気を失っていたのかもしれない。
お互い意識してはいないが、痛み分けといったところだろうか。
「一体何があったんだ……?」
訳も分からずにザンは困惑する。
「…………これ……弁償かなぁ……?」
そして、血で汚した寝具類の処理に頭を抱えた。
「う~、取り敢えず、血を拭いておくか……」
と、ザンは血で汚れた身体を、シーツで拭いはじめた。
更にシーツが血みどろになるが、もう自棄だ。
ここまで汚してしまえば、もうどれだけ汚れても大差ないだろう。
ともかく、何とも騒がしい、ある朝の一場面であった。
ちなみにファーブは、まだ宿の軒下で眠っていた。




