―宿の朝―
「ん――――――っ!」
フラウヒルデはベッドから身を起こし、伸びをした。
窓からは朝日が射し込んではいるが、まだ薄暗い。
結局、宿に到着したのは日付が変わる寸前だった。
それから床に着き、眠れたのは精々5時間弱くらいだろうか。
充分な睡眠時間とは言いがたい。
しかし、フラウヒルデはこの時間に起床することが習慣なので、眠気を感じつつもベッドから起き上がった。
隣のベッドでは、ザンがまだスースーと寝息を立てて熟睡している。
それと――、
「…………何故に?」
ザンのベッドの上に、ファーブが転がっていた。
フラウヒルデは無言でファーブを抱えあげ、窓から部屋の外に放り出す。
いくら母の恩人だとしても、たとえ犬猫が主人のベッドに潜り込む感覚でやった悪気の無い行為だったとしても、女性の寝室に侵入するのはいただけない。
それからフラウヒルデは、着替えようと浴衣の帯を解き始めた。
ちなみにこの浴衣は、彼女の自前のものである。
彼女は普段から、この東方のパジャマである浴衣を愛用していた。
いつもは男勝りで凛々しい彼女も、浴衣を着こんでポニーテールに結わえていた髪をおろすと、別人のようにお淑やかに見える。
おかげでザンは意外とも、悔しそうとも、あるいは羨ましそうとも取れる、かなり複雑な視線をフラウヒルデへと向けることとなった。
ともかく彼女は、浴衣から稽古着に着替え、おろしていた髪も手際良く結い上げる。
「さて、走り込みにでも行ってくるか」
昨日のルーフへの言葉通り、彼女は日々の日課である走り込みを開始した。
それから約2時間後――。
「む……従姉殿は、まだ眠っているのか?」
全身汗だくになって走り込みから戻ってきたフラウヒルデは、まだ眠っているザンを見つけて視線を尖らせた。
ルーフの所為で、旅は当初の予定よりもかなり遅れている。
別に急ぐ旅でもないが、これは観光旅行ではないのだ。
遅れを取り戻す為にも、今日はかなりの距離を踏破しなければならない。
その為にもそろそろ起床して、出発の準備に取りかからなければならない時間だというのに、ザンは全く目覚める気配を見せなかった。
「従姉殿、そろそろ起きてくださいよ。
そして出発の準備をしてくださいな」
と、フラウヒルデはザンの肩を揺すってみるが、彼女は眉間に皺を寄せて、わずかに呻いただけだった。
「むう……。
少し前までは、人前で熟睡することが無かったという話は、本当なのか?」
フラウヒルデは首を傾げる。
以前のザンは、戦士として眠っている時にさえ、全く隙を見せなかったと聞いていたのだが、今の彼女はどうだ。
実力でははるかに劣るフラウヒルデでさえも、寝首をかくことは容易く見えた。
(まあ、不必要な警戒をしなくても良いという、余裕ができた……ということなのだろうが……。
ということは、殺気をぶつけてみれば反応するのではないか?)
一瞬、そんなことを考えたフラウヒルデであったが、さすがに「起こし方としては趣味が悪い」と、それは最終手段とすることにした。
それに寝ぼけたザンによって、斬り殺されてはたまったものではないし。
「従姉殿、起きて下さい。
あっ、あそこにベルヒルデ様が!」
適当な方向を指さして声を上げるフラウヒルデ。
しかしザンは、そんな彼女を完全に無視した。
「むう……母上なら、一発で起きるのだが……」
と、口にした後に、ザンの反応の方が普通なのだと思い当たり、フラウヒルデはなんだか情けなくなった。
彼女の母シグルーンは、いつもこの手で騙されて起きる。
よっぽど姉のベルヒルデのことが好きなのだろうが、やっぱり少し変だし、なによりも何回も引っかかること自体がどうかしている。
(やはり少しボケてきているのかも……。
もう年だしなぁ……)
そんな危惧の念を、抱かずにはいられないフラウヒルデだった。
それはともかく、彼女は根気強くザンを起こすことに労力を裂いた。
「従姉殿 そろそろ朝食の時間ですよ。
いい加減にしないと、従姉殿の分まで食べてしまいますよ」
その言葉にザンは、ピクリと反応する。
35人前強の料理を完食してのけたという記録を持ち、「クイーン・オブ・食いしん坊」の異名を持つ彼女らしい反応だった。
脈有り──と、フラウヒルデは更に言葉を続けた。
「そうです。
早くしないとみんな食べてしまいますよ。
確か宿の主人は、朝食にこの村の名物を出すとか言っていましたね。
それがお気に召さないのであれば、ルーフ殿になにか作ってもらいましょうか。
ルーフ殿の料理は美味しいですからねぇ。
ああ……それも、早く起きないと全部無くなってしまう!」
そんな言葉を耳打ちされたザンは、楽しい夢を見ているかのような、それでいて悪夢にうなされているかのような、そんな対照的な表情を交互に繰り返した。
おそらく目の前に美味しそうな料理が現れては消える――というような夢でも見ているのだろう。
(面白い)
と、フラウヒルデはクスクスと笑った。
こういう悪戯のノリは、母のシグルーンに似ているのだが、それを彼女に指摘したらかなり怒るに違いない。
彼女は彼女なりに、悪ふざけが過ぎる母とは違う生き方をしているつもりなのだが、やはり親子である。
ともかく、もう暫くこの面白い光景を眺めていようか、と思うフラウヒルデであったが、しかし次の瞬間――、
「………………え?」
その笑みは凍りついた。
左手の先に鋭い痛みを感じ、そこへ目を向けてみると――ザンが喰らいついていたのだ。
「い、従姉殿ぉ――――――っ!?」
「うにゅ……骨付きバーベキュー……」
どうやら寝惚けたザンが、フラウヒルデの指を食べ物と勘違いして食い付いたようだ。




