―母という壁―
フラウヒルデは反射的にその場から逃げ出そうとしたが、恐怖によって身体が竦み、途中で動けなくなってしまった。
「ぐぬ……っ!」
「フラウ、あなたの力では、まだあの男には遠く及ばないわ。
戦ったところで犬死にとなるでしょう。
だから私は、あなたをこのまま行かせる訳にはいかない。
どうしてもと言うのなら、この私を倒してからにしなさい!
それができるのであれば、あなたは何をしようが自由です」
「は……母上を…………!?」
倒せるはずがなかった。
今のフラウヒルデの実力では、リチャードには万に一つも勝ち目は無いだろう。
それだけの力の差がある。
しかしそのリャードでさえも、シグルーンには万に一つも勝ち目はあるまい。
それだけ彼女の能力は、強大であった。
「ふふ……、倒せるはずがないわよねぇ……?」
「くっ……!」
シグルーンより発せられる凄まじい威圧感を受け、フラウヒルデの足はガクガクと震え、その顔からは見る見る内に血の気が引いていった。
全身には冷たい汗が噴き出ている。
(倒せるはずがない、倒せるはずがない!
でも、倒さなければ、母上は絶対に私を止める……!!)
フラウヒルデは本気となった母を、止める術を知らなかった。
たとえ彼女が密かに城を抜け出すなどの策を弄したところで、シグルーンは確実にそれを看破して彼女を逃さないだろう。
それだけ母は勘が鋭く、頭が切れた。
そしてそれを活かす行動力と、実力も兼ね備えている。
そんな母を出し抜くことは、まず不可能だった。
だからフラウヒルデにとって母の存在は、ある意味では脱出不可能の牢獄にも等しかった。
だが、いつまでも母に、このまま囚われている訳にはいかない。
フラウヒルデも、もう独り立ちしてもいい年頃だ。
「わ……分かりました。
それならば、何が何でも母上を倒します。
私は母上からも逃げません!
たとえ勝ち目がなかったとしても、勝つことを諦めたりなんかしませんっ!!」
フラウヒルデは目に涙を溜めつつも力強く言い放ち、腰に佩いた剣に手をかける。
そんな娘の様子を見て、シグルーンは叫ぶ。
「その意気や良おぉーしっ!!」
「………………へ?」
その言葉と共に、部屋を満たしていたシグルーンからの威圧感が消え失せる。
唐突に軽くなった空気と、思わぬ母の言葉を受け、フラウヒルデは訳も分からずにきょとんとした。
そんな娘の顔が面白いのか、シグルーンは楽しげな表情で腕組みしながら、「どかかっ」っと勢い良く席に座り直す。
「あなたの覚悟のほどを、しかと見せてもらったわ。
いいでしょう! この私の能力を知った上で、『倒す』と歯向かえるだけの覚悟があるのなら、私にも止めようがありません。
好きにしなさい」
「ほ、本当ですかっ!?」
「確かに危険ではあるけれど、あなたが何倍も大きく成長できる、良い機会であるのも事実ですからね……。
ただし、勇気と無謀を履き違えてはいけません。
引くべき時は引きなさい。
自らの命を軽く見る者は、他者の命をも軽く見がちです。
自身を守れぬ者は、他者をも守れはしません。
……これが分かりますか?」
「しかし……己を捨てなければ、守れない生命もあると思いますが……」
シグルーンの言葉にフラウヒルデは、イマイチ釈然としない様子で反論する。
「だけどたとえあなたが生命を捨てて誰かを守ろうとしても、その為に危機に陥ったあなたを、今度は別の誰かが生命を捨てて守ろうとする可能性が無いと言えますか?
また、もしあなたが死ねば、それまであなたに守られていた者達は、誰が守るのです?
誰かを守る為に命を懸けるのも結構――それこそが騎士たる本分でしょう。
しかし無闇に命を懸ければ、それは結果として更に大勢の人間の生命を危険に曝すことにもなりかねないということを知りなさい。
たった1人の犠牲が多くの生命を救うこともあれば、更に膨大な死を呼びこむことも有り得るのです。
まあ……これは難しい問題ではありますけどね。
その時々で誰の命が重いか、軽いかなんてことは、何者にも分からないのですから……。
私も未だに正しい答えは得られません……」
「あ…………」
フラウヒルデは自身の浅慮さに、恥じ入った。
「いいですか?
自らの行為がどのような結果をもたらすのかを常に想定しておき、最善と思われる行為を選択しなさい。
それを日頃から心掛けておけば、想定外の危機に陥った時でも、無意識の内に正しい道を選択できるような直感が備わることでしょう。
そして生命を懸けるのは、本当に採るべき道が1つしか無かった場合にのみ――そこから引けば、最早生き残る術が無い時だけにしなさい。
これらを踏まえなければ、どのような勇気も無謀と成り下がります。
ともかく、あなたが無事でいることが母の願いなのです。
このことを常に心に留めていてくれるのならば、私はあなたを止めるような真似はしませんよ」
「こ、心得ました……母上。
そして、貴重なお言葉をありがとうございました!」
深々と礼をするフラウヒルデに、シグルーンは苦笑した。




