― 涙 ―
「――母様っ!」
ザンは自らの叫び声によって、目を覚ました。
「……夢?
なんか、前にもこんな夢を見たことがあるような……」
枕を濡らすほどに零れていた涙を、ザンは手の甲で拭いながら身を起こす。
周囲を見渡すと、全く見覚えの無い寝室らしき部屋だった。
ただ、室内に並ぶ調度品には、何処となく応接室と同様に、シグルーンの趣味が見て取れる。
おそらくはアースガル城の、数ある部屋の内の1つなのだろう。
「ん? ルーフ……」
ザンがふと気付くと、彼女が眠っていたベッドに寄りかかるようにして、ルーフが眠っていた。
「こいつも無事だったんだ……。
あのリヴァイアサンのあの攻撃からよく…………。
ちょっと待て、その前に私、変なことしなかったか?」
どうも記憶が曖昧でよく憶えていないのだが、ザンはルーフの前でとんでもない醜態を晒してしまったような気がする。
思わず彼女は、顔を真っ赤に染めた。
と、その時――、
「ルーフはお前に回復魔法を施したりして、ずーっと看病していたんだぞ。
後で礼を言っておけよ」
「って……いつの間に、私の頭の上に乗ったんだ、ファーブ?」
本当にいつの間にか、ザンの頭の上にちょこんとファーブが鎮座ましましている。
おそらく小さなサイズから、少しずつ巨大化したのだろう。
寝起きとはいえ、完全に不意を突かれたザンは渋面となった。
「うにゅ……」
その時、ザンとファーブの会話に反応したのか、ルーフがモゾリと動く。
暫くして彼は顔を上げて、
「――ザンさん!」
目からボタボタと涙を溢れさせた。
「な、なな……。
どうしたんだよ?」
「よ、良かったぁ~!
ザンさん、4日も目を覚まさないから、もう、ずーっとこのままじゃないかって……。
うう……っ」
「4日も……。
そうか……心配かけてゴメンな。
もう……私は大丈夫だから泣くなよ。
男の子だろ?」
そう言いつつも、自身の為に泣いてくれる者がいることを、ザンは嬉しく感じた。
(ホントに……夢の通りじゃないか……)
既に薄らぎつつある夢の記憶を思い出しながら、ザンはそう実感した。
「ありがとな。
ルーフが看病してくれたおかげで、身体も全然おかしいところが無いし……。
あ、右手もちゃんと治ってるんだ。
良かっ…………アレ?」
ザンは身体の回復加減を確かめていく内に、自身が全く見覚えも、身に覚えも無いパジャマを着ていることに気が付いた。
「………………」
「あの……ザンさん?」
急に活動を停止したザンの様子に、ルーフは訝しげに訪ねる。
その瞬間、ザンは唐突にシーツで身体を隠すように覆った。
「なななななななな、何で?
誰? 何処っ? 脱がしたの?
私のスーツは?」
ザンは顔を青く染めて狼狽し、その発する言葉からは脈絡が完全に無くなっている。
おそらく、これほどまで取り乱した彼女の姿は、後にも先にも見ることはもうできないかもしれない。
「……ザンのスーツは傷の治療に邪魔だったんで、シグルーンが脱がせてしまった……」
ファーブの言葉に、ザンは沈痛な面持ちとなった。
「それじゃあ……見られたんだ……。
お前達も知っているのか?」
「……まあな」
「はい……」
2人の答えを聞いたザンはうつむき、唇をわななかせた。
自身が最も他人に知られたくないことを知られた――その衝撃は大きい。
「あの……ザンさん。
そんなに気に病むことありませんよ。
何があったって、ザンさんはザンさんなんですから……。
そのことで僕らは、態度を変えたりはしませんよ?」
「そうか……」
しかし、ザンはルーフの言葉を半ば上の空で聞いていた。
どうしようもなく情けない気持ちとなり、自然と目が涙で潤んでくる。
「……でも、あんなものはやっぱり無い方がいいと思うので、皆で協力してできる限りのことはやりました。
勝手なことをして、ゴメンなさいっ!」
「…………え?」
ザンはルーフの言葉に、一瞬きょとんとした。
そして恐る恐る胸に手を当ててみる。
「――――!!」
以前はスーツの上からでも確認できた傷痕の感触が無い。
ザンはシーツを頭から被り込んで、今度は目で確認してみる。
『帰ればその意味が分かるから……』
まさに夢の中での母の言葉は、真実であった。
「みんな……部屋から出ていってくれ……」
「え?」
「出ていってくれよっ!」
「は、はいっ」
怒鳴られて、ルーフは慌てて席を立った。
ファーブはルーフの慌てぶりとは対照的に、ゆっくりと部屋の出口へ向かうが、最後に振り向いて、
「……良かったな」
そう言い残して、部屋を後にした。
ルーフは部屋から出ると、後ろに続くファーブへ、
「勝手なことしたのが、気に入らなかったんですかねぇ?」
と、問いかける。
しかしファーブは、呑気な口調で答える。
「別に怒っている訳じゃないだろ、あれは」
「え? それじゃあ……なんで……?」
「そりゃあ……。ザンみたいな意地っ張りは、自分が泣いてる情けない姿なんて、他人にはあまり見せたくないだろう。
今頃は嬉し泣きしてるだろうさ」
「……あ、そういうことですか」
「ま、とにかくこれからのザンは見物だな。
これでようやくあいつも、前に進める……」
「そうですね……」
ルーフはファーブの言葉に同意しつつ、我がことのように、心底嬉しげな様子で微笑むのだった。
一方、部屋の中ではファーブの言葉通り、ザンが涙を流し続けていた。
涙はどうやっても止めることができず困惑したが、不思議と不快な気持ちはしなかった。
彼女は泣くことが、こんなにも清々しく思えることを初めて知った。
「あれは……本当に夢だったのかな……?」
夢の中の母の言葉が、全て現実と一致していることを、ザンは疑問に思う。
もしかすると、意識を失っていた彼女が治療時のルーフ達の会話を聞いて、それが無意識にあの夢を形作らせたのかもしれないが――いや、真実は誰にも分からない。
(でも……父様のことよろしくって、あの母様の言葉は一体……?)
ザンは一瞬、脳裏に不安をよぎらせたが、すぐにそれを振り払った。
今はまだ、このかつて無いほどの喜びに浸っていたかったのだ。
「……みんな、ありがとう……」
ザンの口からは、自然とそんな言葉が漏れ出た。
偶然にも200年以上前のこの部屋で、ザンの母ベルヒルデが同じ呟きを漏らしていた。
そんな事実をザンは知る由も無かったが、彼女が今感じているこの想いは、おそらく母も同じように感じていたのかもしれない。
この時、誰かに感謝するということがこんなにも気持ちのいいことなのだということも、ザンは初めて知ったような気がした。




