―無関係だから―
咳はたっぷり1分間ほど続いていたが、どうにか吐き気がおさまったのか、それともあまり大きな音を立てるのはマズイと思ったのか、咳き込む音はピタリと唐突に消えた。
それから周囲の様子を探っているかのように、その何者かは静寂を守っていたが、やがておずおずとザンが放り込まれた牢の前に姿を現した。
それはこの牢獄には似合わない、あどけなさの残る少年の顔であった。
ザンが泊まった宿屋の主、ルーフである。
今しがた人が1人死んだ直後とあって、かなり怯えた様子だった。
「な、なんで僕がいることが分かったんですか?」
そんなルーフの質問を、ザンは完全に無視して質問で返す。
「……何故あんたがここにいる?」
「え? ああ、ここって、元々は地下倉庫だったんですけどね。
更にその前は、もう涸れてしまったけれど、地下水脈の通り道だったらしいんですよ。
それで、涸れ井戸とか色々な場所に繋がっていて……。
そこの通路のレンガを外したら横穴があるっていうのは、昔探検しに入り込んだ子供たちの間では有名ですよ。
それが未だに塞がれてないので……」
ザンが周囲を見渡すと、確かにここはルーフの言葉通り、天然の洞窟に加工を施して造られた物であるように見えた。
だが彼女が聞きたかったのは、
「……そういうことじゃない」
ルーフが何をしに来たのか、だ。
ザンの言葉を受けて、彼はうつむいて黙り込んだ。
「まさか私を助けに来たんじゃないだろうなぁ?」
「それは……」
ルーフはそれだけ言うと、また口を閉ざしてしまった。
「あんたは何故こんなにも簡単に、ここへ侵入できたのか分かっているのか?
確かに投獄された人間がすぐに竜の餌になってしまうんじゃ、ここは殆ど使われていないも同然だ。
わざわざ大金と手間暇をかけて、大改修する価値は無いだろうさ。
全く粗末な牢獄だよ。
だからここへの侵入も……そして脱出も不可能ではない」
「……はい」
肯定するルーフの返事は重い調子であり、ザンがこれから何を言いたいのかを察しているようだった。
「だけどもし投獄されていた者が脱獄したらどうなる? 生贄がいなくなったからって、儀式が延期されるか?
腹をすかせているという竜に、なんとか我慢してもらって?
ハッ! 有り得ないな。
そもそも竜の餌というのが、ただの建前だって話は聞いていたよな?
だから、どんな理由があろうとも、儀式が中断されるなんてことは無いだろう。
結局は他の誰かが、竜の生贄にされることになることは避けられないのさ。
そしておそらくそれは、連帯責任として逃亡した者とそれを手助けした者の親族の中から選ばれるんじゃないかな。
場合によっては、一族全員が……ってこともありえるよな?」
「……!!」
「たった1人を助ける為に、誰がそんな危険を冒す?
犠牲者が増えることが分かり切っているのに、生贄を逃がそうと考えるのは、余程の酔狂な奴くらいで、そんな人間はそう滅多にいるもんじゃないだろう。
だから抜け穴を処分する必要も無い……。
違うか?」
「……ええ、そうですね。
確かに以前、ここに侵入して生贄を逃がそうとした人は、あなたの言う通りの目に遭いましたよ……」
ルーフの顔に苦渋の色が浮かぶ。
ザンの指摘は、悉く正しい。
しかもカードはそれを狙い、あえてこの牢獄に繋がる抜け道を塞がない可能性すらあった。
彼にとっては、そのようなアクシデントがあった方が、より楽しい余興となるのだろう。
なにせ生贄の儀式自体が、彼の娯楽として行われているだから。
「それが分かっていて、何しに来たんだ?」
「ぼ……僕だって本当はどうしたいのか、分かりませんでしたよ。
だけど自分と関わりのある人が、死ぬのをただ見ているのはもう嫌です……」
「……私が逃げたことで、とばっちりを受けるかもしれない町の人間は、あんたと関わりが無いとでも?」
ザンは冷淡に返した。
結局の所、誰かが犠牲にならなければ、収まりがつかない状況なのだ。
「……でも、やっぱりあなたのことも放ってはおけません。
……だから自分がどうするべきか、その答えを得る為にここに来たんです。
あなたに会えば、答えが見つかるかもって……」
「で、答えは見つかったのか?」
「ええ、やっぱりあなたは逃げてください。
身代わりに僕が残ります。
僕にはもう肉親はいませんから、犠牲は僕1人だけで済むはずです」
「へえ……」
ザンの口元に微かな笑みが浮かんだ。
それはルーフの勇気を称賛するものなのか、それともその無謀さを嘲笑うものなのかは定かではなかったが。
「昨日あなたが言った通り、この町はいつか竜に喰らい尽くされるかもしれません。
でも、それはまだ何年も先のことだと、僕達は思っていました。
カードの機嫌さえ取っていれば、最小限の犠牲でまだまだ生きていけるだろうと……。
それにカードはかなり高齢の老人です。あいつがあと10年以上も、今の健康な状態を維持できるとはとても思えません。
あいつが衰えれば、今の町の現状もきっと変わるはずです。
そんな希望が残されているから、町の人達も今の地獄のような日々を耐えていけるんです。
だけどさっきのあなたとカードのやりとりを聞いていたら、僕達にはそんなに猶予が残されていないのではないかと思えてきました。
カードにとって僕達の命は、ただの玩具みたいだ……。
たぶん、飽きたら躊躇無く捨てるような気がします。
ある日突然に、カードの気まぐれで僕達が皆殺しになるなんてことも、そう遠くない日に……」
「やるだろうな、あの爺は」
まるでルーフの言葉が決定事項であるかのように、ザンは迷い無く頷く。
「あれだけの力があるんだ。
いつまでもこんな小さな田舎町で、くすぶっている理由はないさ」
「……っ!
冗談じゃないですよ!
それならいつまでも、あんな奴の言いなりになっている理由なんてありませんっ!!
あいつの気分次第でこの命を奪われるくらいなら、僕自身の意志でこの命を使います。
僕達はカードがこの町に来た時点で未来を奪われていたのかもしれないけど、元々あなたはこの町とは関係が無い。
だからこんな馬鹿げたことに、付き合う必要なんてありません。
今すぐ逃げてください!
そして、近隣の町にカードの脅威が降りかかるかもしれないと、警告してください。
それならば……っ」
興奮の所為か、ルーフの言葉が詰まる。
だが、その続きは聞くまでもない。
「それならば……あんた達の死も無駄ではない……。
意義があると……?」
「……そ、そうです」
それから暫くの間、ザンは真っ直ぐにルーフの顔を見つめていた。
その顔には何かを楽しむような笑みがある。
それを目の当たりにしてルーフは、ようやく決心した覚悟が、霧散していくような感覚となった。
ザンはルーフの必死な想いを、さほど意に介しているようには見えない。
事実──、
「ははっ、はははははっ。
今時他人の為に命を懸けるか。
真っ直ぐな奴だなぁ」
「わ、笑いごとじゃ……!」
ザンは唐突に笑いはじめた。
そのことにルーフは気色ばんだが、それもすぐに萎むこととなった。
「だけどそうゆーのは好きだよ、私は」
ザンはルーフへと、優しげな眼差しを向ける。
それはルーフの想いを受け止め、それに共感しているかのようでもあった。
……が、それはすぐに、嘲るような笑いへと一変する。
「だが、考えが甘いな」




