―決戦の準備―
「さあな……って……!」
ベーオルフの頼りない言葉に、ベルヒルデは軽く憤る。
彼が万が一敗北した場合、その後に残ったファーブニルが、この国を襲わないという保証は何処にも無い。
だから彼女にとって、「勝てない」では困るのだ。
無論、この男に勝てるような竜を相手に、人間はなす術も無いだろう。
まあ、ファーブニルはシグルーンを助けてくれたので、この国に害をなす可能性は小さいように思えるが、それでもベルヒルデから不安は消えなかった。
そんな彼女の心中を察したのか、
「でも、俺は負けたこと無いしな」
ベーオルフは自信ありげに、ニッと唇の端を吊り上げる。
そんな彼の様子に、ベルヒルデはイラついた。
自身が今、物凄く大変な時だというのに、脳天気なままの彼がなんだか恨めしい。
それでも変に上辺だけの同情をされるよりは、マシなのかもしれない。
それにベーオルフは、この国の実情をよく知らぬ部外者なのだから、いかにこの国難の中とはいえ、「お前も悲しめ」と強要するのは筋違いというものだ。
また、ベルヒルデの悲しみを紛らわせようとして、ベーオルフがわざと明るく振る舞っている可能性も無い訳ではない。
実際、この男の相手をしていると、ベルヒルデはなんだか調子が狂ってくる。
怒るのも馬鹿らしい。
「……とにかく、本当に大丈夫なの?
あの竜は、簡単に勝てるような奴な訳?」
「う~ん、そうだな……。
その身体に秘めた力は、あの3匹の中でも1番小さかったと思うぞ。
とは言っても、お前が戦った火蜥蜴の数十倍……下手したら百倍以上の力はあると思うが……」
「百倍!?」
ベルヒルデは驚愕から大声を上げかけたが、今が深夜に差しかかった時刻だということを思い当たり、慌てて口を両手で塞いだ。
辺りを見回して周囲の様子を窺ってみるが、幸いにも今の声に気がついた者はいないようだ。
しかし今のベーオルフの話が事実ならば、あのファーブニルとか言う竜は凄まじく強い。
自身が命懸けで戦った火蜥蜴の百倍の力――もし、そんな竜とベルヒルデが戦ったとしたら、
(私なんか数秒もたないかもね……)
その結末はまず覆らないだろう。
そんなことを想像して、ベルヒルデはゾッした。
それなのにベーオルフは、余裕の表情を浮かべている。
それがベルヒルデには信じられず、不安を煽るのだ。
確かにベーオルフは強いが、技の面では彼女よりもはるかに劣ると、自らが明言しているのだ。
「でも……あの竜の中で1番力が弱いからって、他にもなにかあるはずでしょ?
そうでなきゃ、あの湖を作った竜に瀕死の傷を負わせたあなたに、勝ち目なんか無いもの。
……戦いを挑んでくるはずがないわ」
「そうだな。
多分、あいつは技とスピードに関する能力が、ずば抜けて高いんだろう。
お前と似たタイプの戦い方が得意なんじゃないかな。
そっかあ……スピードかぁ……」
ベーオルフはここに至って、初めて問題点に気づいたかのように、眉根を寄せた。
「ほ……本当に大丈夫なんでしょうね?」
「いや~、スピードってのは、結構厄介だぜ?
あの火蜥蜴――お前の戦っていた竜だって、かなり速かっただろう?」
「そうね、私ほどじゃあなかったけど……」
「あいつらの本気の動きは、俺だって捉えるのに苦労するんだ。
それと同等以上のスピードを、あのファーブニルって奴が持っていたら、結構苦戦するかもな。
……それにあの再生能力……。
他の竜であれだけの能力を持つ奴は、たぶん存在しな……い……」
心なしかベーオルフの顔が青ざめていた。
ファーブニルの能力を分析していて、だんだんと不安になってきたのかもしれない。
(む……無茶苦茶心配だわ……!)
「だ、大丈夫、大丈夫だって!」
ベーオルフはベルヒルデの、「本当に勝てるのか?」とでも言うような、疑わしげな視線を明るく笑い飛ばした。
しかし、頬の辺りに冷や汗が一筋伝っている。
「……やっぱりこのままじゃ不安だわ。
あなた、ちょっとついてきなさい。
これから剣の稽古をつけてあげるから」
「おっ、いいのか?」
「仕方がないわよ。
あなたが負けると、私も困るんだから。
でも、私の指導は厳しいわよ?」
「ああ、平気平気。
厳しい実戦を生き抜いてきた俺だぜ?
剣の稽古くらいで、泣き言なんか言わねーよ」
――それから数時間の間、「重心移動のバランスが悪い」、「斬り込みの角度が甘い」などとベルヒルデの怒声が何処からともなく鳴り響き続けていたという。
それに混じって弱々しい男の泣き声が聞こえて来たとか、来なかったとか。
ベーオルフは全然平気ではなかったようだ……。




