― 妹 ―
ベルヒルデは数日ぶりに妹の名を呼んだ。
いや、顔を見ることさえ、随分と久しぶりのことであるような気がする。
あれほど可愛がっていた妹なのに、彼女はこの数日間、その存在を完全に失念していたのだ。
その事実を今更ながらに認識して、酷く後ろめたい気持ちとなった。
「姉様ぁ……」
まだ6歳の少女でしかないシグルーンは、その年齢には似つかわしくない、深い悲しみに満ちた表情で姉を呼ぶ。
そして、どこかヨチヨチとした頼りない足取りで、ベルヒルデへと近づいて来た。
ベルヒルデはそんな妹へ、沈痛な眼差しを向ける。
「……それ以上近づいては駄目よ、シグルーン……」
「……どうして?」
シグルーンは不思議そうに小首を傾げる。
「姉様の手は汚れているのよ……。
沢山の憎しみが籠もった、血が染みついている……。
こんな手で、あなたを抱きしめてあげることはできない……のよ……」
「……? いつもと同じだよ。
優しい姉様の手だよ」
シグルーンは姉の言葉の意味が分からず、きょとんとした。
「でもっ!
……あたしがどんなことをしてしまったのかを知れば、シグルーンはあたしのことを嫌いになるっ!」
ベルヒルデは苦しげに顔を歪め、喚いた。
それを受けてシグルーンは、ビクリと身体を竦ませる。
「姉様の言っていること……よく分からないよ。
よく分からないけど……姉様のことを嫌いになんてならないよ?
嫌いにならないから……姉様まで……あたしを独りにしないでよ……!」
「……っ!
……シグルーン!」
ベルヒルデはハッとして、うつむき加減の顔を上げた。
そこには涙に濡れたシグルーンの顔がある。
「もう……嫌だよ……。
父様がいなくなって……兄様も皆も忙しそうにしていて、姉様もどこかへ行っちゃって……。
誰も構ってくれないの……もう嫌だよ……!」
「シグルーン……」
ベルヒルデは愕然とした。
(なぜ、早く気付いてあげられなかったのだろうか)
と――。
苦しんでいたのは自分だけではなかった。
幼い妹も、父の死に苦しんでいたのだ。
それなのに、本来共に悲しみを分かち合い、慰め合わなければならないはずの肉親が、誰1人としてシグルーンの側にいてやれなかった。
その苦しみは幼い彼女にとって、耐えがたいものだったに違いない。
それにも関わらずシグルーンは、国中が戦に翻弄されていたことを肌身に感じたのか、誰にも迷惑をかけまいと独りで耐えていたのだ。
それは今の今まで、彼女が1番慕っている姉にさえも、一切の助けを求めず、頼ろうともしなかったのがその証明だろう。
だが、それもついに耐え切れなくなった。
シグルーンは姉に、いや、幼い頃から彼女に寄り添い育んできた母親とも言えるベルヒルデに、救いを求めてこの場へと訪れたのだろう。
「……おいで、シグルーン……」
ベルヒルデが声をかけた瞬間、シグルーンは声を上げて泣きながら彼女にしがみついた。
そんな妹の小さな身体を、彼女は強く抱きしめる。
「ごめんなさい……!
もう、絶対にシグルーンのこと独りにしないから。
いつも一緒にいてあげるから……!
ごめんなさい……っ!」
ベルヒルデは溢れ出す涙を拭おうともせずに、ひたすら妹に詫びる。
シグルーンはそれに応えるかのように、更に強くしがみついた。
(こんなにも私を、必要としてくれる子がいる……!)
生きる意義を見失いかけていたベルヒルデには、それだけで充分だった。
今まで自らを苦しめていた迷いが、晴れていくような気がした。
罪悪感は消えはしなかったが、それを一生でも背負い続けていく覚悟ができた。
(私は間違っていない……!
ううん、今はまだ間違っているかもしれないけれど、私が選んだこの道は正しい答えに続いている)
ベルヒルデはそんなことを想う。
今はこの最愛の妹を始めとする多くの人々を、戦火から守ることができた――それに満足し、感謝すればいい。
そして、犯してしまった罪はこれから生きている限り、償って行こう――と。
自身を必要としてくれる者がいる限りは、償いはいくらでもしていけるはずだ。
(だからどんなに苦しんでも……どんなに罪を背負っても、あたしは戦い続ける。
それで助けられる人がいる限り……!)
ベルヒルデは優しく妹の頭を撫でた。
「ありがとうね……シグルーン」
「? あたし、何もしてないよ……?」
シグルーンは泣き顔を、怪訝そうな表情へと変えた。
「ううん……姉様、凄く助けられた……」
ベルヒルデは目から涙を溢れさせつつも、優しく微笑んだ。
シグルーンも姉の言葉の意味はよく分からなかったが、微笑みを返した。
(何があっても、この子の笑顔を守って行こう…………)
この時、ベルヒルデは心に強くそう誓った。
誓った──はずだったのに…………。




