―囚われの姫―
本日2回目の更新です。そして、いよいよ4章の本筋に入ります。
「兄様ぁ! シグルーン!!」
ベルヒルデが半狂乱に陥って叫んだ瞬間、彼女の腰をベーオルフは小脇に抱えた。
「な、なっ!?」
異性に抱き抱えられた経験も免疫も無いベルヒルデは、顔を真っ赤に染めて大パニックを起こし、ジタバタと暴れまわる。
「大人しくしていろ。
今、あそこに登るから」
と、ベーオルフが王座の間のあった場所を見上げた次の瞬間、彼はベルヒルデを抱えたまま10m近い高さまでジャンプした。
そして城の壁に足場を見つけ、そこを踏み台にして再びジャンプし、それを繰り返しながら登ってゆく。
「ひああぁぁぁぁぁぁぁ~っ!?」
遠のく地面を見つめながら、ベルヒルデは絶叫を上げた。
もしも今、ベーオルフが彼女を落としてしまったとしたら、確実に墜落死する。
そんな高所で足が地についていないという恐怖は、ちょっと言葉では言い表せない。
今は上昇しているが、その恐怖は落下しているのと大差ないと彼女は感じた。
そしてようやく城の壁を登り切り、足場のある場所へと下ろされたベルヒルデは、ヘナヘナと床に崩れ落ちる。
腰が抜けてしまったのかもしれない――彼女はそう思った。
「に……二度といきなりやらないでちょうだい……!」
ゼェゼェと息を絶え絶えにしながら、やっとのことでベルヒルデは抗議の声を上げる。
「階段を上るよりも早くて、いいじゃねーか」
軽い調子でベーオルフは応じるが、その表情は緊張に凝り固まっていた。
ベルヒルデが彼の視線の先に目を向けてみると、周囲にあったはずの壁や天井などは全て吹き飛んでおり、ガランとした何も無い空間が広がっている。
そこには、2匹の巨大な生物の姿があった。
1匹は赤黒い肌の悪魔のような上半身の下に、竜の身体を持つ怪物。
その体躯は30m近い。
そしてもう1匹は対照的に、豹のように洗練された肉体を持っていた。
全体的には白色だが頭部だけが紅く、額にある宝石のように青い第3の眼が美しい。
大きさはベルヒルデが先程戦った火蜥蜴と大差ないが、凄まじいまでの精気をその肉体から溢れさせている。
そんな2匹の恐るべき存在の前には、薄汚れたローブを身に纏った人物の姿があった。
顔はフードに覆われていて見えなかったが、その2メートルを超える長身から察するに、おそらくは男だろう。
その巨漢の男の小脇には、目からボタボタと涙を零すシグルーンの姿があった。
「シグ……!」
ベルヒルデは妹の名を叫びかけたが、その途中で息を飲んだ。
シグルーンを抱えた男の前に、周囲を紅く染めて倒れ臥している人物の姿が目に飛び込んできたからだ。
「兄様ぁ!?」
その叫びに、シグルーンは反応した。
しかし、兄バルドルは微塵も動かない。
彼の周囲を紅く染め上げた出血の量は、その生存が絶望的だという現実を突きつけていた。
しかもその身体に目を向けてみれば、絶望の度合いは更に深まる。
手足などのいくつかの部位が、バルドルの身体から欠損していたのだ。
「ね、姉様ぁ……。
兄様が……あたしを助けようとして……あたしを……っ!」
シグルーは嗚咽まじりに姉へと告げた。
「そんな…………!!」
ベルヒルデは絶句し、そして何が起こったのかを理解した。
(あの男だ……!
あの男が兄様を……!)
眼前にいる男はベーオルフが言っていた通り、竜が人の姿に変化したものなのだろう――と、ベルヒルデは悟った。
おそらくその男は、避難民に紛れて城に侵入し、そして結界を破った。
しかしこの場で起こったことは、それだけにとどまらない。
(あいつ……シグルーンを人質にとって、抵抗できない兄様を一方的に嬲ったんだ……!!)
ベルヒルデのその想像はおそらく正しかった。
そうでなければ、あそこまで無残な死に様を曝すような兄ではなかったはずだ。
事実、国王であるバルドルは、何十人もの騎士に守られていた。
また、バルドル自身もベルヒルデが一目を置くほどの魔術の使い手であり、その気なれば転移魔法によっての逃走も可能だったはずなのだ。
それができなかった――いや、しなかったのは、人質がいたからに他ならない。
あの男がシグルーンを抱えていることが、全てを物語っていた。
「ふん、もう来たのかよ。
山に降りたヴリトラとファーブニルの方へ、向かうと思っていたのだがな。
虫けらを見捨てることができぬとは、甘い奴よ。
これでこの地から立ち去るのも、容易ではなくなってしまったわ……」
男はベーオルフの姿を一瞥すると、不快そうに言葉を発した。
その声は壮年を終えようとした男のように低く、そしてわずかにしゃがれたものだった。
「うわあぁぁーっ!」
ベルヒルデは唐突に、男へ目掛けて駆け出した。
既に戦う為の武器は無い。
そもそも戦えるような身体の状態でもない。
しかし、怒りと妹を救わんとする想いが、我を忘れさせた。
だが、そんなベルヒルデの身体は、大きく弾き飛ばされて床に転がる。
男が張った結界に衝突したのだ。
「姉様ぁ!」
シグルーンの悲鳴が上がる。
しかし、ベルヒルデはすぐに上半身を起こし、鬼気迫る表情で男を睨みつけた。
「その子を解放しなさい……っ!!」
「……放すと思うのか?
俺が逃げ切るまでには、まだまだ使い道のあるこの娘を……?
少しでもおかしな真似をしてみろ。
この娘を捻り殺す。
後ろの男にも、よく言って聞かせろ」
男は、ベルヒルデを嘲笑うかのような調子で答える。
「…………っ!」
ベルヒルデはベーオルフへと視線を向ける。
しかし、彼は抑揚の無い口調で、
「人質に効果があるとでも思っているのか?」
と、言い放ち、男へと剣を向けた。
「やめて……っ!
シグルーンが……!」
懇願に近いベルヒルデの静止の声に、ベーオルフは首を左右に振る。
「今ここで戦ってあの子を救いださなきゃ、あの子は二度と戻ってはこないぜ……。
危険でも戦うしかねーんだよ」
「でも……っ!」
「考えてもみろ。
このままあいつを逃がしたとして、あの子が人質としての価値を失ったら、無事に解放する必要があると思うか?」
「……まず喰らうな」
ベルヒルデの代わりに、男が平然と答えた。
それを知られたところで、彼女達が迂闊に動けないという状況は変わらない。
たとえ戦って人質を取り戻そうとしても、その命を盾に取られては、それも容易ではないだろう。
そして保身の為に人質を見殺しにするはずが無い――そんな人間の甘さを、男はある意味で信頼していた。
「…………っ!!」
シグルーンはビクリと身体を硬直させ、恐怖に目を見開いた。
それを目の当たりにしたベルヒルデは、悔しそうに拳を床へと叩き付ける。
確かにこのままシグルーンが連れ去られれば、おそらく彼女は二度とここには戻って来ないだろう。
男の言葉通りならば、遺体すらも――。
それはベルヒルデにとっては、絶対に耐えられないことだった。
だから彼女はベーオルフに向け、怒りに震えたか細い声で懇願する
「……あの子を助けて……っ!」
自身にはどうすることもできない――そんな現実がベルヒルデには心底悔しかった。
「ああ……っ!」
ベーオルフが気合いを込めると、その人の身の丈を超す巨大な剣からから膨大な量の闘気が立ち上り、更に巨大な物へと見せた。




