―遠い日の記憶―
今回から4章です。今回と次回はプロローグです。その次と次も実質的にプロローグかもしれません。
とある辺境の山脈の麓に、小さな里があった。
その里は広大な森林と霧深い谷の狭間にひっそりと存在しており、外界の交流は全くと言っていいほど無い。
人口は精々300人程度だろうか。
そんな人界より孤立した里から、更に孤立した場所に平屋建ての家があった。
その玄関先では1人の女がその家の住人――ベルヒルデへと何らかの抗議をしている。
女はベルヒルデの長身にして細身、銀髪で紅い瞳という特徴的で美しい容姿とは対照的に、中肉中背で顔立ちもさほど特徴の無い普通の女であった。
しかしこれでも、世界最強を誇る戦士の1族の1人である。
そんな女の背後には、ベルヒルデよりも更に長身で、やや浅黒い肌と短くクセのある黒髪の女が、腕組みをしながらことの成り行きを冷静に観察している。
ベルヒルデは悪戯を咎められた子供のように、ふてくされた表情で彼女にとっては理不尽とも言える女の抗議の言葉を、適当に聞き流していた。
だが、こめかみの辺りを時折ひくひくと痙攣させていることからも、怒りを堪えていることが傍目にも明らかだった。
「――私の子を叩くなんてどういうつもりなの、あなたは?」
強い口調ではあるが、何処か感情の籠もらない冷めた印象を受ける女の言葉に、今まで無言でいたベルヒルデはついに我慢の限界に達したらしく、
「どういうつもりもなにも、あなたの子はうちのリザンちゃんに石を投げつけたのよ!?
頭にコブができた程度で済んだから良かったようなものの、大ケガをしたらどうしてくれるのよ。
そっちこそどういうつもりなの!?」
激しい口調で言い返す。
「ふん……低俗な人間の子がどうなろうと、私の知ったことではないわ。
そんなことよりも問題なのは、人間の分際で私達斬竜剣士に手をあげたということよ」
「どうなろうと知ったことではない……ですって!?」
ベルヒルデの眼光が険しくなり、表情が冷たく凍りついてゆく。
そんな彼女の様子に女は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「……あなた、もしもリザンになにかあったら、冗談抜きであなた達を地獄へ直行させるわよ!?
よく覚えておきなさい……っ!!」
静かな調子ながらも強い怒り――というよりは殺意が籠められたその言葉に、女はやや圧倒されつつも気色ばむ。
「な、なんですって……!」
「もう……やめておけ」
だが、制止の声は背後から唐突にかけられた。
「ヒイナギ……!
こんな奴を庇うつもりなの!?」
「そうじゃない……。
いちいち下等な人間の言うことに、同レベルで張り合うなと言っているのだ。
いい? 相手は物事の善し悪しもよく理解できないお猿さんなのよ?
猿の戯言なんか真に受けないで、悠然と構えていればいいの。
私達はそいつよりも高等な存在なのだから……」
「しかし……!」
ヒイナギの言葉に対して、女はまだ不満を残していたが、
「あなたの子が怪我をさせたのは、ベーオルフの娘だっていうことを忘れていないかしら?
これ以上ことを大きくすると、彼まで敵にまわすことになるのだけれど、それがお望み?
ベルヒルデがあなたの子に手を上げた件については、副族長である私が後でよく言って聞かせておくから、あなたはもう下がりなさい」
「わ……分かったわよ……。
それじゃあ、後はお願いするわ……」
女もさすがに族長であるベーオルフの名を出されると弱いようで、渋々とその場から退散した。
それから暫くしてベルヒルデは、
「仲裁に入ってくれてありがとう、ヒイナギ。
猿はちょっと聞き捨てならないけどね……」
と、やや皮肉混じりの調子で謝礼を述べる。
そんなベルヒルデの言葉に、ヒイナギは溜め息混じりに応えた。
「お前、本気で怒っていたからな……。
止めない訳にはいかんだろう……。
私はお前の怖さを良く理解しているつもりだからな……」
地獄へ直行させる――。
ベルヒルデはやると言ったら、本気で実行するだろう。
そして、一度動き始めた彼女を、穏便に制止する術をヒイナギは知らない。
しかもなんの代償も払わずに、力ずくでベルヒルデを止めることも不可能に近い。
むしろゲリラ戦に持ち込まれれば、一族総掛かりでも彼女を制圧することは難しいだろう。
ならば彼女が暴走するような事態を起こさないよう、日頃から気を配っておことく――それがヒイナギに取れる最善の策である。
「ホントにね。
私と正面切って戦ったことがあるのは、一族の中でもあなただけですもの……。
ベーオルフを賭けてとは言え、よくやったものだわ」
勝ち誇ったようなベルヒルデの言葉に、ヒイナギは渋面を作る。
確かに彼女はベルヒルデと戦い、そして手痛い目に遭っていた。
しかしだからこそ、ベルヒルデの人柄と実力を他の一族の誰よりも良く理解していた。
それはある意味では、ベーオルフ以上に。
そしてベルヒルデが決して下等な存在ではなく、一目を置く価値がある者だということも認めている。
とは言え、一族の大半の者がベルヒルデとその娘を蔑み、忌み嫌っているという現状では、表立って友好的に接することは、彼女の立場上できなかった。
それがもどかしくもある。
「それに……私も正直言って、小さな子供を傷つけてなんとも思わない奴等の鈍感さには呆れている。
奴も母親なら、お前の気持ちも少しは分かっても良いものだがな……」
「まあ……確かに子供のことはね……。
でも、一応種族が違うんだもの、簡単には相容れないのも分かるわ。
あなたの時みたいに全面戦争をやってしまえば、分かりあえることもあるのかもしれないけど、さすがに一族全部が相手では負ける気はしないけど、勝てる気もしないわね。
……やっぱり時間をかけるしかないよ……」
ベルヒルデは寂しげに微笑んだが、それもすぐに不敵な物へと変わる。
「まあ、それもあと数年ね。
もうすぐ誰もリザンちゃんには逆らえなくなるから。
そうなればこっちのものよ」
「……なに?」
ヒイナギは訝しげに眉宇をひそめた。
ヒイナギは元々別の名前が付いていたのですが、実在する同名の人のイメージが強くなりすぎたので、改名しました。




