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(8)

 思いがけなく祖父母の話を聞かせてもらえ、スターチアはアディスに礼を言った。

 しかし、彼はバツが悪そうに笑う。

「いやいや、私は自分がいかに愚か者だったのかという話をしただけで、君に礼を言われるようなことはしていないよ」

 鋭く切れ上がった目尻を僅かに下げて苦笑いをしているアディスは、手にしているパンに視線を落とした。

「素朴だが、噛むほどに味わいが広がるこのパンを、何度となく夢に見ていたよ。祖父殿は今、どちらに?」

 問われたスターチアは困ったような笑みを浮かべ、「ずいぶん前に、流行り病で祖母と一緒に亡くなりました」と告げた。

「そうか……。それは、とても残念だ」

 その表情は、心の底から彼女の祖父の死を悼んでいることが伝わってくる。

 しばしの沈黙の後、アディスは「ところで……」と切り出す。

「君はどちらに店を構えているのかな? こうして移動販売をしているのは、たまたまかい?」

 スターチアは、緩く首を振った。

「いえ、店は構えていません。公園での販売許可をいただいているだけです」

「それはもったいない。君が店を出したら、たちまち繁盛するだろうに」

 その言葉に、彼女はまた首を横に振る。

「暮らしていくだけの稼ぎは、十分に得られます。お金があっても、使い道がありませんので」

「なるほど、祖父殿に似て堅実だ」

 大きく頷いたアディスはパクリとパンに齧り付き、あっという間に食べきった。

 最後の一口をゆっくりと咀嚼した後、フッと短く息を吐く。

「こうして食べてみても、味はまったく変わっていないな。いやはや、君の腕前には恐れ入る」

「祖父の教え方がよかったからではないでしょうか」

 はにかんだように笑うスターチアに、アディスが提案を持ち掛けてきた。

「本当に、店舗を構える気はないのかね? 保証人が必要なら、私の名を貸してもいいんだが」

 初めて会った自分にそこまでしてもらうのは気が引ける上に、スターチアはもともと店を構える気がない。ありがたい申し出だが、深々と頭を下げて辞退した。

「お気持ちは、大変ありがたいのですが……。お話ししたように、私一人が暮らしていける稼ぎで十分なんです」

 彼女の返事に、アディスはなにやら考え込む。

 ややあってから、彼は新たな提案を持ち出してきた。

「それなら、軍の厨房でパンを焼くというのはどうかな? 厨房の専属になってもいいし、ここでの商売に支障がない程度に手伝うだけでも構わないんだ。思い出のパンを口にできる機会が増えたら、私も嬉しい」

 スターチアは、すぐに返事ができない。

 こんなにも熱心に勧めてくれるアディスに断りを入れるのはかなり気が引けるが、素直に頷けない理由が彼女にはある。

 返答に悩んでいるスターチアの様子に、アディスは無理を強いることはなかった。

「そうか。気が向いたら、いつでも声をかけてくれ。それから、困ったことがあったら、多少なりとも力になれるだろう。隊長職は退いたが、人脈はそれなりに広いからな」

「お気遣い、ありがとうございます」

 深々と頭を下げるスターチアの様子に、アディスは皺が刻まれた目元を細める。

「いやいや、礼を言われるほどのことじゃない。おお、そうだ。そちらのパンもいただこう。全部、包んでくれないかね」

 言われた通りにパンを油紙で包んで差し出すと、明かに代金よりも多いお金を差し出された。

「あ、あの、これは?」

 戸惑うスターチアに、アディスはいっそう目元を細める。

「なに、昔話に付き合ってくれた礼だ。遠慮なく、受け取ってほしい」

「ですが……」

 さらに困惑するスターチアの手に、アディスはサッと紙幣を握らせた。

「アディス様!?」

 驚いて声を上げるスターチアの手を、アディスの大きな手が優しく包み込む。

「君が受け取れないというなら、祖父母殿の好物でも買って供えてくれないかね。私の頼みを、どうか聞いてほしい」

 そこまで言われてしまったら、スターチアには断ることができない。

「分かりました。きっと、祖父母も喜んでくれます」

 スターチアが改めて頭を下げると、アディスは軽く手を振ってその場を去っていった。


「とんでもない方とお話ししてしまったわ……」

 すっかりアディスの背中が見えなくなったところで、スターチアは大きなため息とともに独り言を零した。

 誰もが知るこの国の英雄で、彼の存在があるからこそ、今も他国が攻め入ってこないのだと言われるほどである。

 話してみると穏やかな老紳士だったが、スターチアはその存在感に終始圧倒されていた。緊張しないほうがおかしい。

 もう一度ため息を零したところで、すでに帰ったと思っていたマールが小走りでやってきた。

「あら、マールさん。どうしました?」

 声をかけるスターチアに、マールはゼイゼイと荒い呼吸を繰り返しながら、彼女の細い肩を掴む。

 なにやら興奮状態にあるようで、その力はかなりのものだった。

「マ、マールさん?」

 痛みはないが、普段にないマールの行動に、スターチアは驚きに目を丸くする。

 そんな彼女に、マールは息を切らして話しかけた。

「い、今の、お客さん、も……、もしかして、アディス様だったんじゃないのかい!?」

 情報通で町の保安部に勤める夫を持つマールは、老紳士の正体をすぐさま見抜いた。

「あれほど軍人らしいお方は、他にいらっしゃらないよ! ねぇ、スターチア!」

「え、ええ。そうです。確かに、アディス様でしたよ……」

 どうしてマールがここまで興奮しているのか理由が分からないスターチアは、戸惑いがちに答える。

 すると、マールはバンバンと勢いよく彼女の細い肩を叩き始めた。

 さすがに、これは痛い。おっとりしているスターチアでも、思わず苦い笑みを浮かべてしまうほどに。

「マールさん、落ち着いてください」 

 眉尻を下げて笑う彼女の様子に、マールはハッと我に返った。そして、慌てて肉付きのいい手を引っ込める。

「ご、ごめんよ、スターチア。思わず、力が入っちまってねぇ。怪我はないかい?」

 途端に心配してくるマールの様子に、スターチアはにっこりと笑った。

「いえ、そこまでは痛くなかったですよ。ちょっと、驚いてしまっただけです」

「そ、そうかい。それならいいけど、すまなかったね」

 そう言って、マールはスターチアの肩をソッと撫でさする。

「ところで、どうしてあんなに慌てていたのですか?」

 スターチアの問いかけに、ふたたびマールがハッと息を呑んだ。

「そ、そうだよ! アディス様がスターチアのパンを買ったんだった」

「は……、はい。その場で最後までお召し上がりになりましたよ」

「なんだって!?」

 スターチアの言葉を聞いたマールは一言叫び、クワッと目を見開く。

 体が資本の軍人だって、肉ばかり口にしているわけではない。野菜やパンを食べることもあるだろうし、中には甘いものを好む軍人だっているはずだ。

 それにアディスはすでに退役したのだから、現役軍人と同じように、モリモリと肉を食べる必要はない。

 彼がすでに退役したことを、マールなら知っていそうなものだが。

 首を傾げるスターチアに、マールは早口で説明を始めた。

「あのお方は英雄として広く知られているけど、最近では食通としても知られているんだよ。でも、相当味に厳しいらしくてねぇ。だからこそ、アディス様が気に入った商品は、必ず飛ぶように売れるって話だ。今はどの店もアディス様に足を運んでいただこうと、躍起になっているそうだよ」

「まぁ、そうだったんですか」

 町の情報に疎いスターチアは、聞かされた話に少しばかり驚いたような返事をする。

 しかし、どうにも反応が薄い。

 そんな彼女に、マールはヤレヤレとばかりに首を横に振った。

「スターチア。とても名誉なことなんだから、もっと驚いてごらんよ」

 呆れたように首を振るマールの様子に、スターチアは小さく笑う。

「アディス様が私のパンを最後まで召し上がったのは、それがたまたま思い出深いものだっただけではないでしょうか」

「思い出?」

「はい」

 そこで、スターチアはアディスと自分の祖父がかつて王都で出会い、交流があったことをマールに伝えた。アディスの名誉のため、彼が祖父に怒鳴られたという部分は省いて。

「へぇ、不思議なご縁があったもんだねぇ」

 感心したように何度も頷くマールに、スターチアはふたたび苦笑を浮かべた。

「ですから、私のパンはけしてアディス様の舌にご満足いただけた訳ではないんです。長年食べたいと望んでいたパンだったから、残さず食べてくださったんだと思います」

「そうかねぇ」

 納得いかないといった感じで呟くマールに、スターチアは苦笑を深める。

「そうに決まっていますよ。それに、お腹が空いていたとおっしゃっていましたしね。では、私はそろそろ帰りますね」

「ああ、そうかい。気を付けて帰るんだよ」

 ようやく話が落ち着き、スターチアは公園を後にした。


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