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(7)

 その男性が数回咀嚼した後にハッと目を大きくしたことで、スターチアはたちまち顔色を失う。 

 パンを作る時には、異物が入らないように注意を払っていた。

 今までそのような事態が起きたことはなかったが、もしかして、髪の毛でも入っていただろうか。

 それとも、頬が引きつるほど、パンの味が悪かったのだろうか。

「あ、あの……、そのパンになにか問題がありましたでしょうか?」

 恐る恐る尋ねる彼女に、男性はパンからスターチアへとゆっくり視線を移した。

「このパンは、どなたが作ったものですか?」

「わ、私ですが……」

 男性客が手にしているのは、軽く茹でたトウモロコシを混ぜ込み、ほんのり塩味を感じるパンだ。

 本来は味の濃い食事とあわせるものだが、噛み締めるたびにトウモロコシの甘みと生地の塩加減が混ざり合い、単独で食べても素朴な味わいが楽しめるはずである。

 どのような文句が出てくるのかと、スターチアがさらに身を小さくしていたところ、その男性は意外なことを尋ねてきた。

「修業は、どちらの店で?」

 なぜ、そのようなことをわざわざ訊くのだろうか。

 もしや、とんでもなく味の悪いパンを売る弟子の責任を取らせるため、修行先を突き止めようというのか。

 いや、さすがにそれはないだろうと、スターチアは心の中で呟いた。

 幾分落ち着きを取り戻した彼女は、問いかけに答える。

「店で修行をしたことはありません。私の祖父がパン職人でしたので、色々と教わりました」

 それを聞いた男性は、またしても目を見開いた。

「あなたの祖父というのは、もしや……」

 男性が口にしたのは、まさしくスターチアの祖父の名前だった。

 今度はスターチアが目を丸くする。

 どうして祖父の名前を知っているのだろうか。男性の身なりはしっかりしているので、それなりの要職についているはずだ。

 小さな村でパン屋を営んでいた祖父と、どういった繋がりがあるのだろうか。

 気になってしまったスターチアは、思わずその男性に詰め寄った。

「そ、そうです! 祖父をご存知なんですか?」

 すると、男性は皺の深い顔に穏やかな笑みを浮かべる。

「ああ、そうだ。まだ、名乗っていなかったな。私はアディス・フェルガー。現役時代は、国軍の第三部隊に所属していた」

 それを聞いて、ふたたびスターチアは顔色を失う。

 アディス・フェルガーという名前は、世間に疎いスターチアでも知っていた。

 だが、彼の顔までは詳しく知らなかったのである。

 アディスは実力がある者しか入隊が許されない、国軍最強の第三部隊において、至上最年少で隊長に上り詰め、また長きに亘り、隊長職を務めていた人物だ。

 彼の生家は男爵家であり、貴族の中では身分が低い。それでも、指揮能力、騎馬能力、また長剣の扱いにおいて右に出る者はいないと言わしめた。

 八年前、この国の鉱物資源を狙って他国が攻め入ってきた時、先陣を切って戦地に乗り込んだのがこのアディスだ。

 勇敢かつ冷静沈着な彼の働きにより、自国も敵国も被害は少ないまま勝利を収めたというのは、あまりに有名な話である。

 その『生きる伝説』であるアディスを前にして、スターチアはとてつもない緊張に襲われる。


――どうして、そんな大それた人が、ここでパンを買ったりするの!? 


 そんな彼女の様子に気付いたアディスは、眉尻を下げて笑った。

「はっはっは、そんなにかしこまることはない。私はもう部隊長を退役して、のんびり後進の指導に当たっている隠居の立場だ。今日はたまたまこちらの方面に用事があって、散歩がてらうろついている気楽な身分なんだよ」

 豪快に笑う様子からはスターチアを責める気配はいっさいないが、だからといって、気を抜いていい相手ではない。

 彼の働きがあったからこそ国が平和になり、こうしてスターチアは気ままにパン売りができているのだ。

 これが敵国に支配されたとなったら、のん気に外を出歩くこともできなかっただろう。

「い、いえ、そんな。アディス様のお名前は、しがない平民の私でも、よく存じ上げております。それに、今でもアディス様に教えを請い、慕う軍人が多いとも聞いております」

 マールから聞いた話をそのままに口にすると、アディスは逞しい肩を僅かに竦めてみせる。

「だが、昔は鼻持ちならない若造で、君の祖父殿にはよく怒鳴られたものだ」

「ええっ!?」

 それを聞いて、ますますスターチアは体を強張らせた。


――お、お、おじいちゃん! なんてことを!?


 当時のアディスが今のような大人物ではなかったかもしれないが、それにしても、軍人相手に怒鳴るなど、一介のパン屋にしてはありえないことだ。

 オドオドと視線を彷徨わせているスターチアに、アディスはまた声を上げて笑う。

「三十年ほど前になるか。私は軍に入りたての世間知らずな若造で、それと爵位が低いこともあって、やっきになって手柄を立てようとしていたんだよ。体格もよく、剣さばきも自信があったから、それはそれは生意気だった」

 気の利いた相槌を返すことができないスターチアは、ただただ、体を小さくして話を聞いている。

 アディスは黙り込む彼女に気分を害したこともなく、思い出話を続けた。

「いつか軍の上層部に上り詰め、自分を馬鹿にした者を見下してやるという一心で、訓練に取り組んでいたんだよ。あとになって、そんな自分が最も愚かだったと気付いたがね。まぁ、血気盛んな若造は、大抵そのようなものだ。ははっ、本当に私は馬鹿者だった」

 改めて声を上げて笑ったアディスは、ふいに遠い目をする。

「とにかく、周りは全員敵だとさえ思っていたよ。誰よりも強くなって、その全員を問答無用で従えることができたらと。そのことばかりを、毎日考えていた」

 立ち尽くすスターチアに苦笑を向けたアディスが、ふたたび遠くを眺めながら口を開く。

「入隊して、三ヶ月が経った頃だったか。非番の日に町へ出て、気晴らしにフラフラと歩いていたんだ。その時、鼻をくすぐるいい匂いが漂ってきてね。それは、君の祖父殿が構えていたパン屋から漂う匂いだった」

 まるで当時を再現するかのように、アディスは深く息を吸い込む。

 次いでゆっくりと息を吐き出し、彼は話を続けた。

「話によると、そのパン屋は開店するとすぐさま評判になったそうでね。ちょうど腹を空かせていた私は、匂いにつられて店内に足を踏み入れた。濃灰色の瞳を持った、優しい笑顔の女性が出迎えてくれたよ。自分の母親と同じくらいの年齢だったから、君の祖母殿だろう。確か、名前は……」

 彼が口にしたのは、祖母の名前だった。

 祖父だけではなく祖母の名前まで知っているのだから、アディスの話は本当なのだろう。

 まさか、自分の祖父母が、後に国の英雄となるアディスと知り合いだったとは。しかも、祖父が在りし日のアディスを怒鳴っていたとは。

 感動と驚愕が入り混じり、スターチアの頭は爆発寸前だった。




 なにも言わないスターチアにかまわず、アディスはさらに話を続ける。

「祖母殿はニコニコと笑って、私にあれこれと商品の説明をしてくれたんだ。その優しげな様子が嬉しくて、私はつい、日頃抱えていた鬱憤を祖母殿に打ち明けたんだよ。鬱憤というよりは、愚かな思い上がりだったがな」

 そこで、アディスはまたしても肩を竦めてみせた。

「ところが、ちょうど店に顔を出した祖父殿がこちらの顔を見た途端、ものすごく不機嫌な顔になったんだ。祖父殿が言うには、私は軍人の心構えがなっていないと。もちろん、すぐさまそんなことはないと言い返したよ。私は誰よりも軍人に向いているという自負があったからね」

 遠くの景色からスターチアに視線を戻したアディスは、いたずらを叱られた子供のような表情を浮かべている。

「だが、祖父殿は鼻を鳴らして言ったんだよ。『仲間を信頼できない者は、軍人として生き残ることはできない』と。初めて顔を合わせたにもかかわらず、胸の内を見透かされたあの時ほど、驚いたことはなかったな」

 豪胆すぎる祖父の過去に、スターチアの額にはうっすらと冷汗が浮かんでいた。

 そして相変わらず相槌を返せないまま、彼の話に耳を傾ける。

「聞くところによると、祖父殿はもともと軍の厨房で働いていたそうだ。それもあって、戦場調理人として、戦地に出向いたことがあったとか。残念なことに足を負傷し、軍の厨房を離れたらしい。軍人たちの胃袋を満たすための料理を作る厨房はまさに戦争だし、危険と隣り合わせの戦線に赴くには、祖父殿の体では厳しかったのだろう。それで、祖父殿は王都でパン屋を開いたそうだ」

 祖父母はスターチアにそういった話をしてこなかったので、本当に寝耳に水だった。

 思い返してみると、祖父は時折左足を引きずっていた。気温が下がる冬は、特につらそうにしていた記憶がある。

 それが戦場で負った傷が原因だったとは、幼いスターチアには考えつかなかった。

 節くれだった大きな手で美味しいパンを作る祖父は、彼女にとって魔法使いにも等しかった。

 そんな優しい祖父が大好きだったスターチアは、よく無理を言って、祖父に肩車をしてもらったりしていたのだ。

 きっと、足の痛みをこらえていたはずなのに、祖父はいつもニコニコと笑っていた。

 今さらながら祖父に申し訳なさを抱いていると、アディスは残念そうな表情を浮かべた。

「入隊して一年が過ぎた頃、私はある南の国に数ヶ月間の訓練遠征していた。帰国して真っ先に祖父殿のパン屋に向かったんだが、店をたたんで故郷に戻ったと聞かされたよ。なんでも祖母殿の体調が思わしくなく、空気が綺麗な田舎に引っ越したと」

 確かに、スターチアの祖母は器官が弱かった。季節の変わり目によく咳き込んでいた祖母にとって、人も馬車も行き交う王都よりも、緑に囲まれた土地のほうがはるかに落ち着くのだろう。

 スターチアが生まれた村は、なにもなかった分、豊かな自然に溢れていたから。


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