(6)
ところが、そんな彼女の反応にジェンドは不機嫌を露わにする。
「言いかけてやめるなんて、ずいぶんと意地の悪いことをするんだな。人間のくせに、悪魔並みに捻くれてやがる」
スターチアは決して意地悪するつもりで黙り込んだのではなく、彼のことを気遣っただけなのだが、神経を逆なでしてしまったらしい。
とはいえ、あの続きを言葉にしてしまったら、さらに機嫌が悪くなるのでないだろうか。
しばし考え込んだスターチアは、おもむろに口を開く。
「あなたがあまりに素敵だから、浮かれて口が滑っただけなの」
そのようなことは思ってもいないけれど、相手を不機嫌にすると分かっていて本当のことを言うほど、彼女は愚か者ではない。
パンを売るようになってから、多少のお世辞や建前を言えるようになったスターチアである。
――まぁ、嘘だと分かったら、もっと不機嫌になるでしょうけど。でも、悪魔に気を遣う必要なんてあるのかしら?
密かに彼の様子を窺っていたスターチアだが、彼女の目に映るジェンドの顔には怒り嘲りも呆れもなかった。
体の前で腕を組み、ツンとあご先を上げてぶっきらぼうに言い放つ。
「今夜のお前は素直すぎて、居心地が悪い」
ところが、そう告げる彼の顔は、まんざらでもなさそうだ。
――あなたこそ、素直すぎるんじゃないかしら?
この悪魔が見せる規格外な態度に思わず笑ってしまいそうになったスターチアは、自分の太ももを抓ることでどうにか笑いを堪えた。
彼ほどの美貌なら、さんざん称賛されてきたはずだ。
魔界では強さと美貌が比例するらしいので、色々な意味で彼は羨望の眼差しを向けられているに違いない。
たまたま彼のことを目にした人間も、凛々しくも美しい容貌に、それこそ魂を抜かれたようにひれ伏すかもしれない。
それなのに、このような簡単な嘘に騙されるとは。
彼は本当に悪魔界の誇り高き貴族なのだろうか。
だが、そんなことはスターチアには関係のないことだった。
すぐにでも自分を死の淵に誘ってくれない悪魔など、偶然町ですれ違う人たちよりも関係のない存在だ。
改めて肩掛けを引き上げたスターチアは、長く息を吐いて月を見上げる。
月の位置がだいぶ上がってきているのを見ると、けっこうな時間を過ごしていたらしい。
これ以上ここにいると、体の芯まで冷えそうだ。そろそろ、下りる頃合いだろう。
スターチアは隣に立っている悪魔をチラリと横目で窺った。
彼とは友人でもなく、隣人でもなく、パンを買ってくれるお客でもない。
声を掛けずにこの場を去ったところで、スターチアの心は少しも痛まない。
それに、彼だってなんとも思わないだろう。無礼だとか、薄情だとか、そのようなことはつゆほども感じないはず。
彼女は無言のまま腰を上げると、はしごがかかっている場所までそろそろと移動する。
はしごの最上段に足を掛けたスターチアは、先ほどまで自分が座っていた場所になんとなく視線を向けた。
とっくに飛び去ったと思っていたけれど、そこにはまだ漆黒の青年が佇んでいる。しかも、ジッとスターチアを見つめて。
恐ろしいまでに整った顔は無表情だが、彼の視線はなにかを言いたそうにこちらを見つめていた。
そこでスターチアは思い出す。彼が規格外の悪魔だということを。
――まさか、声をかけられるのを待っているとか?
違う気もするけれど、そうとは言い切れないところがある。
少し迷った後、彼女は人間相手なら誰しも就寝前に口にする挨拶を告げた。
「おやすみなさい。どうか、素敵な夢を」
と言ったものの、はたしてこれは正解なのだろうかと考えてしまう。
人間にとっていい夢でも、悪魔には不快なだけかもしれない。
では、悪魔にとっていい夢とはなんだろうか。
そこで、スターチアは言い直すことにする。
「どうか、素敵な悪夢を」
「……お前、正真正銘、変な女だな」
彼女の言葉を聞いたジェンドは、盛大に顔をしかめたのだった。
翌朝となり、スターチアはいつもの日課をこなす。
生みたての卵を集め、野菜を収穫し、牛の乳を搾り、朝食を済ませた。
もちろん、生活費を稼ぐために、今日も手製のパンを売りに行く。
町までは幌が付いていない格安の乗合馬車で向かうため、あまりに天気が悪いと出かけることができない。
それに店舗を構えず、公園のベンチを利用して販売しているため、雨が降ると商売にならないのだ。
休むと日銭が入らないので、大した貯えを持たない彼女は、よほどのことがない限り休むことなくパン売りに出かけるのである。
幸いなことに体は丈夫らしく、スターチアはめったに寝込むことはない。
いや、早くお迎えに来てほしいと望む彼女にとって、丈夫であることはむしろ不幸なのかもしれないが。
スターチアが公園に現れると、彼女がいつも利用しているベンチの周りには、すでに常連たちが押し寄せていた。
素朴さと値段の安さだけが売りのパンだが、このように待ちわびてくれる人がいると、もっと美味しいものを作ろうという励みになる。
「お待たせしました。今日のおすすめはオレンジのはちみつ漬けを細かく刻んで生地に混ぜたパウンドケーキと、バターをたっぷり使った丸パンがおすすめですよ」
スターチアの声に、常連たちは我先にと勧められた品に手へとを伸ばす。
その様子を物珍しそうに遠巻きに見ていた者も、つられるようにベンチにやってきた。
町のパン屋のように見栄えのするパンはないので、一見しただけで立ち去る客もいるが、何人かは「せっかくだから」と言って、一つ、二つと購入する。
「素朴なパンですが、シチューや肉料理を合わせて食べると美味しいですよ。野菜とチーズを挟んで食べるのもおすすめです」
初めての客にも丁寧に声を掛け、食べ方を説明する。
彼女の穏やかな物腰と、気持ちを込めて作られたことが分かるパンにより、新顔の彼らは「また買わせてもらうよ」、「今度は菓子パンを買おうかねぇ」などと、まずまずの反応を見せてくれた。
スターチアは静かに微笑み、頭を下げる。
「どうも、ありがとうございました」
こうして、スターチアのパンは徐々に評判を広めているようだ。
もちろん、マールをはじめとした常連たちが口コミで彼女のパンの美味しさを広めているものの、やはり実際に食べてもらうことが一番の宣伝である。
――あの人たちの口に合うと嬉しいんだけど。
そんなことを思いながら立ち去る背中を見送っていると、「どれ、私も買ってみようか」という声がかかった。
スターチアが振り返ると、五十代に差し掛かる頃合いと思える男性が立っている。
髪と髭には僅かに白いものが混じっているその人は肩幅が広く、上等なコートを着こなす堂々とした立ち姿には威厳があった。
白いシャツの襟から覗く首はがっしりしていて、力強さを感じさせる。
足元は編み上げのブーツを履いていて、それがとても似合っている。
背が高く、年齢に見合ったシワが刻まれた顔は少し怖いけれど、彼の目は凪いでいる海のように穏やかだった。
――軍人さんかしら?
スターチアは見慣れない男性のことを観察しているが、今は接客中であることをはたと思い出す。
「い、いらっしゃいませ」
スターチアは慌てて声を掛け、籠に残っているパンを見せた。
「品数がだいぶ少なくなってしまいましたが、よろしければご覧ください」
すると、その男性は籠の中に視線を落とし、五つほど残っているパンをじっくりと眺める。
「こちらの四角いパンは、ほんのり甘く煮付けたマメが入っています。その隣は、刻んだハムを生地に混ぜ込んでいます。そして、これは……」
スターチアの説明を聞いていた男性は、やがて一つのパンを指で示した。
「こちらをいただこう」
「ありがとうございます」
スターチアはパンばさみで示された商品を取り上げ、薄い油紙に包んで渡す。
「ちょうど腹が空いているからな、さっそく」
そう言って、男性は油紙を少しめくり、パクリと齧りついた。