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男性は見るからに意地の悪い笑みを浮かべ、ジロジロとスターチアを眺めている。
それから、彼女の後方へと視線を向けた。
「後をつけられた様子もないな」
ニヤリと笑った男性は、深く頷く。
「まったく、魔術にはこういった使い方もあるとは。さすがとしか言いようがないな」
その言葉に、スターチアの心臓がドクンと音を立てた。
――今、魔術って言ったわよね?
それは、悪魔だけが使える不思議な術だ。
評判のいい占術師であっても、魔術と呼ばれるようなものを扱う能力はない。
なぜ、この男性がそのようなことを言ったのだろうか。
スターチアの背中に、冷たい汗が伝う。
彼女は魔術を使える漆黒の青年を知っている。
その青年がこの男性に手を貸し、スターチアになんらかの魔術をかけたのだろうか。
暇つぶしのために。
スターチアと悪魔の青年は毎日顔を合わせているが、友人ですらない。
たびたび「愚かな小娘」だの「矮小な人間」などと呼ぶスターチアを陥れることに、躊躇う関係ではなかった。
――本当に……、あの悪魔が……?
スターチアはこれまでのことを振り返る。
肉付きの薄いスターチアの体調を心配し、適度に熱を発する肩掛けを用意してくれて、屋根から落ちそうになった彼女を抱き留め、熱を出した彼女のためにあれこれと世話を焼き、次々と物が現れる魔術を見せてくれた。
残虐極まりないとされる悪魔のくせに、スターチアが安易に死ぬことを窘めたのだ。
言動は優しいものだったと言いきれないが、それでも、スターチアを心配してくれていることは伝わってきていた。
――でも……、すべて暇つぶしのためだったとしたら?
悪魔は人間のことを虫けらのように思っていて、気まぐれで、残酷な存在だと、幼い頃に読んだどの絵本にも書いてあった。
だから、悪魔らしからぬ言動でスターチアを油断させ、彼女が心を許しかけたところで、地の底に突き落とすといったことを仕掛けてきても、なんらおかしくないのだ。
それが、悪魔というものだから。
彼女の胸に複雑な感情がこみ上げ、目の奥が熱くなる。
だが、いまだに体は自由に動かすことができず、目元に手を当てることもできない。
無言で立ち尽くすしかないスターチアの様子に、男性がフンと鼻を鳴らした。
「旦那様がお待ちだ」
そう言って彼女の腕を乱暴に掴み、無理やり馬車へと押し込んだ。
体を動かせないスターチアは、床板の上に転がる。
手をつくことができないため、左頬を打ち付けてしまった。
「うっ……」
小さな呻き声を上げたスターチアを一瞥した男性が、ふたたびフンと鼻を鳴らす。
「生意気な平民が、手間をかけさせやがって」
憎々し気に吐き捨てた男性は、盛大な音を立てて馬車の扉を乱暴に閉める。
まったく状況が呑み込めないスターチアを乗せた馬車は、程なくして静かに走り出した。
硬い床に転がされたスターチアは、ガタガタと揺れる音をボンヤリと聞いていた。
混乱しすぎて、左頬の痛みも感じなくなっている。
――いったい、どういうことなの? 誰が、なんのために?
馬車に押し込んだ男性は、スターチアを『平民』だと言った。
そして、スターチアは時代遅れの古ぼけたワンピースを着ている。
そんな彼女から金品を奪うための誘拐だとも思えない。
また、スターチアは顔の造作が悪いわけではないが、誰もが振り返るほどの絶世の美女ということでもなかった。
攫って愛人にしようとか、他国の娼館に売り飛ばしてやろうとか、そういった目的があるとも考えられない。
第一、そのような目的があるなら、彼女が顔を床に打ち付けても構わないという乱暴な扱いはしないはずだ。
――本当に、なんなの? これから、私はどうなるの?
スターチアの疑問に答える声はなく、馬車はひたすら走り続けていた。
やがて馬車は停まり、ふたたび乱暴に扉が開かれた。
「おい、小娘。さっさと降りろ」
例の男性がスターチアの腕を容赦のない力で掴み、馬車の中から引きずり出す。
降りろと言われても、相変わらずスターチアの体は脱力していて、まともに歩けない状態である。
そんな彼女にかまわず、男は大股で歩き出した。
引きずられるように歩きながら、スターチアは顔を上げてこっそり辺りを窺う。
まだ日が傾く時間帯ではないが、木々が鬱蒼と茂っているために薄暗かった。
――なんだか、嫌な感じだわ。それに、空気が淀んでいるような……。
寒いわけではないが、スターチアは思わず身を震わせる。
――どう考えても、悪いことしか起きそうにないわね。
これまでの扱いを考えると、彼女を攫うように命令した人物は、スターチアの顔にも体にも興味はなさそうだ。
では、なんのためにここに連れてこられたのかと、スターチアは改めて考える。
無意味だと分かっているが、そうでもしていないと、恐怖で気を失いそうなのだ。
少しでも情報を得ようとして、スターチアは必死に視線を巡らせる。
この時になって、目隠しをされていないことに気付いた。
誘拐時、普通なら手足を縛って動きを封じ、口を塞いで騒がれないようにするものだ。
スターチアには謎の魔術がかけられているので、これらを施す必要がないのは理解できる。
しかし、視界を塞いでいないことが不自然だった。
スターチアほどの年齢となれば、見たものはそれなりに記憶できる。
彼女が町の保安部やアディスに覚えていることを話したのなら、この誘拐事件はあっという間に明るみに出るだろう。
スターチアを馬車に押し込んだ男性が顔をまったく隠していなかったのも、馬車を降りる際に目隠しをされなかったのも、彼女が得た情報は、今後誰にも知られることはないからだと言っているようなものだ。
それは、つまり、スターチアの命が保証されていないということになる。
そのことに思い至り、スターチアの体がさらに震えを増す。
屋敷の前に立った男性が、ふいに振り返った。
「さすがに馬鹿な小娘でも、少しは理解したようだな。……まぁ、手遅れなんだがな」
そう言ってニヤリと笑う男性を見て、スターチアは血の気が引く感覚に襲われていた。




