(67)
辺りに人がいなくなると、カゴを手にしたスターチアが歩き出す。
彼女が向かったのは公園の出入り口ではなく、奥まった位置にあるベンチだ。
スターチアが近付くと、ベンチに座っている青年が顔を上げる。
「やぁ、今日も大繁盛でなによりだ」
整った顔に穏やかな微笑みを浮かべるジェンに向け、スターチアが軽く頭を下げた。
「こんにちは、ジェンさん。おかげさまで、無事に完売です」
スターチアがパンを売っている間、ジェンが周囲の様子を窺っているとはいえ、彼女に危害を加えようと企んでいる人物が近付けないというかどうかは分からない。
だが、見守ってくれる人がいるということで、スターチアは心強かった。
それに、離れたところから見守ってくれているからこそ、広い範囲で様子を窺うことができ、異変にいち早く気付くことができるだろう。
――これまでなにもなかったけれど、この先も無事とは限らないものね。軍の関係者には見えないジェンさんだからこそ、悪いことを企んでいる人が油断して姿を現すかも。
軍人というのは、己の体が武器でもある。
彼らがたとえ軍服を着ていなくとも、鍛えた体は普段着では隠し切れない。
それもあって、アディスはあえて軍の青年たちをスターチアの護衛として配備しているのだろうが、犯人を捕まえるには逆効果だろう。
なんにせよ、ジェンには感謝している。
笑顔で礼を述べたスターチアを、なぜかジェンがジッと見つめていた。
いや、スターチアの顔ではなく、別の場所を。
彼の視線の先は、スターチアがまとうワンピースのポケットだった。
そこには、アディスからもらった懐中時計が入っている。
とはいえ、ワンピースの生地は厚く、また懐中時計は平たい物なので、外からではポケットになにかが入っているようには見えないだろう。
――ジェンさん、どうしたのかしら。……もしかして、綻びているとか?
手入れは丁寧に行っているものの、母と娘の二代にわたって着ているワンピースである。
虫食いの穴はなくとも、生地が弱くなった部分にほつれが生じていることも考えられた。
「あの……、このワンピースがどうかしましたか?」
スターチアが尋ねると、ジェンがそこから視線を外す。
「いえ、素敵なワンピースだなと」
フッと目を細めたジェンに、これといっておかしな様子はない。
――ジェンさんは率直にあれこれ言う人だから、ワンピースになにかあったら正直に教えてくれるわよね。
彼の反応に安堵したスターチアだが、年代物のワンピースを褒められたことで気恥ずかしさを感じた。
マールには『すごく悪いってわけじゃないけど、全体的に古くさいんだよねぇ』と評されるものなので、おしゃれで高級な服を身に着けているジェンに褒められると、どうにも落ち着かない。
「そんな、素敵だなんて……。母が結婚前に着ていたワンピースですから、今の流行りとは違いますし……」
苦笑を浮かべるスターチアに、ジェンが軽く首を横に振ってみせる。
「流行りであるとか、高級品であるとか、服の価値はそういうものじゃない。大切にしたいと思える服を持っているのは、とても幸せなことだ」
彼の言葉に、スターチアは温かい気持ちに包まれた。
「ありがとうございます。これからも、このワンピースを大事にします」
微笑みを浮かべる彼女に、ジェンも穏やかな笑みを返す。
「そうだな。大切なものは、しっかり身に着けておいたほうがいい」
その言い方は服に対するものではないように感じたものの、スターチアは「そうします」と答えるだけに留めておいた。
他愛のない会話をいくつか交わしたのち、スターチアがその場を立ち去っていった。
彼女の華奢な背中を、ジェンが見送っている。
いや、そのまなざしや表情は、『見送っている』とは言いがたいものだった。
「……うまいこと、引っかかってくれそうだな」
そう呟いたのはジェン自身であるのに、なにかが違っている。
だが、その違いに気付くものは、誰一人としていなかった。
公園を出て、乗合馬車の停留所へと向かうスターチアは、ふと足を止めた。
馬車が行き交う道も、人々がすれ違う歩道も、立ち並ぶ店も、彼女が毎日見ているものと寸分変わらない。
それでも、なぜかスターチアは違和感を覚えた。
――どういうことかしら。
パンを焼き上げた際、洋酒に漬けた果物を混ぜ込んだパウンドケーキを味見したものの、それはほんの一口だ。
そして、窯で焼くことによって、洋酒に含まれるアルコールの大部分は飛んでいく。
また、スターチアは酒豪ではないが、極端に弱いわけではない。
なにより、家を出た時も、パンを販売していた時も、ジェンと会話をしていた時も、酒に酔った感覚はなかったのだ。
今になって酔いが回ってきたとは、とうてい考えられない。
では、先日のように熱でも出たのかと、スターチアは片手を額に宛がった。
手の平に感じる自分の体温は、いつもと変わらない。
顔がほてっている感覚もないし、喉の痛みもまったくなかった。
「もしかして、体調を崩す前兆なのかしら。それとも、気付かないうちに疲労が溜まっていたとか」
うっかり熱を出して以降、スターチアは体調管理に気を配っている。
だから、健康には自信があったのだが。
――なんだか分からないけど、早く家に帰ったほうがよさそうね。生姜と蜂蜜を入れた紅茶でも飲もうかしら。
幸い、今日は買い物をすることもなく、数分後にやってくる乗合馬車に間に合いそうである。
スターチアがカゴの持ち手を改めて握り締めた瞬間、先ほどよりも強い違和感を覚えた。
違和感というより、脱力感というべきかもしれない。
スターチアは体から少しずつ力が抜けていくように思えたのである。
このままでは立っていられないと、近くにある壁に手を伸ばそうとした瞬間、うまく力が入らないはずでありながら歩き出したのだ。
彼女の意思とは関係なく。
――あ、足が、勝手に……。
おぼつかない足取りながらも、一定の速度で進んでいく。
困惑したスターチアが誰かに助けを求めようとしたのだが、喉の奥が妙にこわばり、声を出せなかった。
――な、なんなの、これ!
今までに味わったことのない感覚に、スターチアの全身が恐怖で震える。
それでも、彼女の歩みは止まらない。
顔色も動きもこれといっておかしな点がないため、周囲の者たちがスターチアを気にかけることもなかった。
運が悪いことに、スターチアを護衛するはずの軍の者たちは、今日に限って到着が遅れていたのだ。
――いったい、どうしたらいいの!
歩きたくないのに、足は動き続ける。
悲鳴を上げたいのに、一言も発せない。
その状態がしばらく続き、やがてスターチアは人の姿がまばらな町はずれへとやってきた。
そこには一台の馬車が止まっている。
――この馬車は?
見覚えのない馬車に、スターチアはいっそう戸惑いを覚える。
馬車から数歩離れたところまで近付くと、ようやく彼女の足が止まった。
まったく状況が呑み込めない彼女の目の前で、馬車の扉がゆっくりと開く。
「お待ちしていましたよ、強情で生意気なお嬢さん」
中から出てきたのは、アディスが持っていた面相描きの男性だった。




