(66)
翌朝、販売用のパンを焼き上げたスターチアは、出かける準備を始めた。
淡い黄色の小花が散るワンピースに着替え、襟や裾を整える。
これはスターチアの母が結婚当初に着ていたものだ。
当時の母も、引き継いだスターチアも丁寧に手入れをしてきたおかげで、多少の色落ちは否めないが、虫食いの穴はなく、生地も傷んでいない。
マールは、『もう少し、流行りの服を着たらどうだい?』と言ってくるが、着飾るつもりがないスターチアには、これで十分だった。
恋人がいた頃、スターチアもそれなりにおしゃれをしていた。
薄化粧をして、新しいワンピースを着て、可愛い靴を履いて……と、年頃の女性らしく過ごしていたのだ。
その時の気持ちには、もう戻れないだろう。
「おしゃれをしても、誰に見せるわけでもないしね」
彼女は僅かに苦笑を浮かべた。
恋人どころか、親しい知人さえも作るつもりがないスターチアは、パン売りとおかしくない程度で身綺麗していればいいだろうと思っている。
服装については苦情を受けたことがないため、この先も流行りに乗ることはない。
時折、マールが向けてくる『まだ、若いのに』という視線を受け流しつつ、これまでと同じ生活を送るだけ。
着替えを終えたスターチアは、洗面所に向かう。
鏡を見ながら髪を櫛で梳かし、白いリボンで一つにまとめた
前髪を指で整えた彼女は、鏡の中の自分と視線を合わせる。
「相変わらず、真っ黒だわ」
もちろん、それは彼女の瞳の色のことだ。
この世に生を受けて二十年と少し経ったが、別の色に変わるどころか、色がほんの僅かでも薄くなることもなかった。
彼女の寿命が尽きるまで、この色のままなのだ。
あの悪魔の青年と同じ、漆黒のままなのだ。
「彼が聞いたら、『愚かな人間と一緒にするな!』って怒りそうよね」
瞳どころか、髪も眉も、まとう服も、背中の翼も、悪魔の青年は暗黒の色である。
だが、それが彼にはとても似合っていた。
他の色をまとう青年の姿は、まったく想像が付かない。
「でも、ちょっと見てみたいかも。たしか、魔力で髪や瞳の色を変えることができるって言っていたわよね」
やたらと偉そうで口やかましい悪魔の青年は、意外なことに、ホイホイと魔力を使ってくれる。
スターチアがうまいことおだてたら、簡単に了承するかもしれない。
この提案は、青年にとってちょっとした暇つぶしにもなるだろう。
「今夜にでも、話してみようかしら」
クスクスと笑うスターチアの表情は、先ほどよりも明るいものになっていた。
一通りの準備を終えたスターチアは、懐中時計をワンピースのポケットにソッと忍ばせた。
そして、上からポンと軽く叩く。
「さて、と」
スターチアは焼き立てのパンを詰めたカゴを持ち、小屋をあとにする。
乗合馬車に揺られていつもの公園にやってくると、常連客達が待っていた。
「皆さん、こんにちは」
スターチアが声をかけた途端、皆がわらわらと取り囲む。
さりげなく周囲を見回すスターチアの視界に、最近になって顔を出すようになった若い女性の姿が映る。
――この人が、貴族のお屋敷で働いている人かしら?
スターチアと同じくらいの年齢に見える女性客は、果物を使った菓子パンをいくつも手に取っている。
「どれも美味しそう。今日のお茶の時間が楽しみだわ」
ニコニコと人好きのする笑みを浮かべる女性客はとても感じがよく、スターチアが話しかけても、きっと穏やかに返事をしてくれるだろう。
とはいえ、彼女がどこで働いていようと、スターチアには関係ないことだ。
貴族との関わりを持つつもりはないし、むしろ、その繋がりはスターチアにとって厄介なものでしかない。
――まぁ、素知らぬ顔をしておくのがいいわよね。それに、いいお客さんみたいだし。
終始笑顔の若い女性客は支払いを終えると、「また来ます」と言って去っていった。
混雑が収まり、おしゃべり好きの常連客数名がスターチアの周りに残っている。
もちろん、マールもその一人だ。
「このところ、新しいお客さんが増えてきたねぇ」
その言葉に、スターチアが小さく頷く。
「ええ、そうですね。ありがたいことです」
大儲けをする気はないスターチアだが、自作のパンを喜んで買ってくれる客が増えることはやはり嬉しい。
そこに、アディスが話に入ってくる。
「なぁ、スターチア。自宅の窯では、作る数に限度があるだろう。軍の厨房を使っても構わないんだぞ。皆、君が来るのを今か、今かと、首を長くして待っているほどだ」
慰霊祭で味付き肉を挟んだパンを販売して以来、軍内におけるスターチアの評判はうなぎのぼりである。
あの甘辛いタレを絡めた肉は、特に若い軍人たちの間で喜ばれていた。
軍の厨房に出向かない代わりに、スターチアは瓶にタレを詰めてアディスに渡していたのだが、やはり彼女が作るパンがあってこそのものだという話である。
アディスの提案はありがたいものの、やはりスターチアは首を縦に振ることはない。
「申し訳ございませんが……」
困ったような笑みを浮かべるスターチアを見て、アディスはそれ以上、強引に迫ることはなかった。
「ところで、先日、貴族の家の者に声をかけられたとか」
アディスは別の話に切り替える。
ふたたび、スターチアは困り顔で微笑んだ。
「なんでも、私が作るパンのことを耳にされたようでして。屋敷に来てパンを焼いてくれないかと頼まれました。品がいい四十歳くらいの男性で、ニコニコと笑って優しそうでしたよ」
――でも、かなり強引な人でしたけど。
と、スターチアは心の中でコソッと呟く。
彼女の言葉を聞いて、アディスが僅かに顔をしかめた。
「その男の顔は覚えているかな?」
「はい、ある程度は」
「こちらを見てくれ」
そう言って、アディスは面相描きを差し出す。
「この男だったか?」
スターチアはその絵を覗き込み、じっくりと眺める。
しばらくして、彼女は首を横に振った。
「少し似ている気がしますけど……。こんな怖そうな目付きではなかったです。実物と絵の違いはあるでしょうが、雰囲気がまったくの別人ですね」
それを聞いて、アディスが頷いた。
「そうか、分かった」
アディスは面相描きの紙をスルスルと丸め、上着の内ポケットに入れる。
「このことは、気にしなくていい。時間を取らせてすまなかったな。では、失礼する」
「どうぞ、お気をつけて」
スターチアが立ち去るアディスの背中に声をかけると、隣にいたマールが、「あれは、なんだったんだろうねぇ」と呟く。
「事件に関係することなら、保安部にも面相描きが届いているけどさ。あの男の顔は、見たことがないねぇ」
しきりに首を傾げるマールに、スターチアが僅かに肩をすくめる。
「本当に、なんだったんでしょうね。でも、アディス様が気にしなくていいとおっしゃったので、悪い人とではないと思いますよ」
「ま、そうだね。じゃあ、スターチア。私たちも、そろそろ帰るとするよ」
「はい、お気をつけて」
スターチアはペコリとお辞儀をして、常連客たちを見送った。




