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 小屋に戻ってきたスターチアは、パン用の大きなかごを下ろすと同時にため息を零した。

「なんだか、気疲れしちゃったわ……」

 そのため息の原因は、乗合馬車の停留所までアディスの部下である青年に送ってもらったからではない。

 あの青年に限らず、スターチアの身の安全を図ってくれる者たちは、少々押しの強い部分はあるものの、基本的にはスターチアの意思を尊重してくれる。


 だが、帰りに声をかけてきたあの初老の男性は、まったく違っていた。


 ニコニコと人好きのする笑顔を浮かべていながら、スターチアの意見をまるで聞いていない。

 何度断っても、引き下がろうとしなかった。

 また、礼として金品をちらつかせてきたことも、スターチアが引っかかっていた部分だ。

 たしかに、スターチアの暮らしは裕福とは言えない。

 だが、それは彼女自身が望んでのことだ。

 大きな家に住みたい、立派なドレスが着たい、頬が落ちるような豪華な料理が食べたいなど、一度だって考えたことはなかった。

 それなのに、あの初老の男性はスターチアの身なりと、細々とパンを売っているところを見て、金に困っている貧乏人だと決めつけていたように思える。

 それはスターチアの勘違いかもしれないが、とにかくあまりいい気分ではなかった。


 中でも一番引っかかっていたのは、貴族からの依頼だということである。


 停留所まで送ってくれた青年の話では、平民に対する貴族の偏見は以前よりもだいぶ薄れてきたということだが、それでも、わざわざ自分の屋敷に招くだろうか。

 本当に偏見がないということなら、屋敷で働く者たちに買いに行かせることもないだろうし、変装してまでこっそり買いに来ることもないはずだ。

 表立って平民を卑下する貴族が減っただけで、根本的には差別がなくなっていないとスターチアは考えていた。

 だからこそ、屋敷に出向いてパンを焼くという依頼を断ったのだ。

 もう一度ため息を零しつつ、スターチアは呟く。

「もしかして、ノコノコ現れた私を、笑い者にするつもりだったのかしらね。そのほうが、私のパンを気に入ったから屋敷に招くと言われるより、よほど信ぴょう性があるわ」


 『謝礼につられたあさましい貧乏女め』

 『町民の間では少々評判がいいだけのつまらない平民女のくせに』

 『身の程を知れ』

 『一流のパン職人にでもなった気でいるのか』 


 そう言ってあざ笑う貴族たちが容易に想像できる。

 

「結局、そんなところよね」

 スターチアは苦笑を零し、ヒョイと肩をすくめた。




 夜になり、スターチアは月を眺めるために小屋の屋根へと上る。

 あいにくの曇り空だが、雨が降りそうなほど雲は厚くない。ボンヤリとではあるが、月の光が雲から透けていた。

 月の形ははっきり見えないものの、こういう夜は冷え込みが和らぐのでありがたい。

 それでも、スターチアは適度な熱を放つ特製肩掛けを羽織っていた。

 

――これを使っていないと、文句を言われるし。


 妙におせっかいな悪魔の青年は、やたらとスターチアの体調を気にかけている。

 たしかに人間は脆弱であり、風邪をこじらせて死に至ることもあった。

 そのことを、スターチアはあの悪魔の青年から何度も言われていたのである。

「私は契約を結んでいないんだし、言う通りにする必要はないんだけど……。でも、この肩掛けのおかげで寒くないのは助かっているし」

 ありがたいと思っている以上は従ったほうがいいだろうと、スターチアなりの考えだった。 


 スターチアが屋根に上ってから程なくして、聞き慣れた羽ばたき音が耳に届く。

 こちらに向かってくるのが分かっても、彼女が驚くことはなかった。

 夜になると鳥たちが自由に空を飛ぶことはなく、また、この辺りでは夜行性のフクロウやミミズクは生息していなかった。

 そうなると、音の主は例の悪魔しかいないのである。

 スターチアは音のするほうへ少しも顔を向けることはなく、雲の向こうにある月をジッと見上げていた。

 そんな彼女のそばに、漆黒をまとう美貌の青年が現れる。

 スターチアの視界を遮らないよう、一人分空けた左側に。

 悪魔の青年をスターチアがゆっくりと見上げた。

 すると、青年は厭味ったらしくため息を零す。

「ちゃんと、お前の邪魔にならないようにしないとな。いちいち、お前は口うるさいし。悪魔の俺にガミガミ言ってくるのは、図太いお前くらいだぞ」  


――口うるさいのは、あなたのほうじゃない。それに、私はガミガミ言ってないわ。

 

 スターチアは心の中で呟くが、言葉にはしなかった。

 無言でひょいと肩をすくめ、曖昧な笑みを浮かべるだけに留めておく。

 それを見たジェンドは、ふいに片眉を上げた。


――なにか言ってくる?

 

 スターチアはずり落ちた肩掛けを引き上げながら、軽く首を傾げる。

 いまさらこの悪魔になにを言われてもいっさい気にしないので、『好きに騒げばいい』と、彼女は心の中で呟く。

 漆黒の瞳がスターチアをまっすぐに見つめていた。

 瞬きすらしないで、なにかを探っているような視線だ。


――どうしたの? なんだか、いつもと様子が違うような……。


 そのように見られてもこれといってなんとも思わないスターチアは、とりあえず黙ったまま青年の視線を受けていた。




 しばらくして、ジェンドの口角が微かに上がった。

「……そうか」

 ようやくしゃべったと思ったら、その一言だけである。


――さんざん人のことをジロジロ見てきて、それしか言わないの? 少しは説明しなさいよ。


 スターチアは心の中で文句を言うが、相手は身勝手な気まぐれ悪魔だ。

 こちらのことなど、まして、人間のことなどどうでもいいのだと気付き、小さなため息を一つだけ零す。

 そして視線を青年から外し、雲が晴れない夜空を見上げた。

 すると、ジェンドが声をかける。

「おい、お前。あの懐中時計を、肌身離さず持ち歩けよ」

 青年が言う懐中時計とは、アディスからもらったものだろう。

 家に置いておくと、万が一、物盗りが小屋に入った時に狙われると思っていたスターチアは、言われるまでもなく常に持ち歩いていた。

「どうして?」

 思わずスターチアは問いかける。


 だが、相手はやはり悪魔でしかない。


「いいから、俺の言う通りにしろ」

 そっけなく返してくるだけで、説明する素振りをまったく見せなかった。

 

――どうせ私がなにを言っても、説明する気はないだろうし。説明したくなったら、勝手に話してくるでしょ。


 これまでのやり取りで青年のことをだいぶ理解したスターチアは、無言で大きく頷き返した。 


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