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 停留所へ向かうスターチアと青年の姿を、建物の陰からこっそりと窺っている者がいた。

 先ほど、スターチアに声をかけた初老の男性だ。

 ところが、その男性の視線は鋭く、表情も硬いため、同一人物とは思えないほどである。

「……くそっ、邪魔が入ったな」

 低い声で憎々しげに吐き捨てた男性はギロリと二人の背中を睨み付けたあと、その場から足早に立ち去って行った。




 初老の男性はとある路地裏まで来ると、隠してあった服に着替え、髪型も変える。

 これで様相がまったく変わり、対面して話をしていたはずのスターチアであっても、おそらく気付かないだろう。


 なぜ、変装する必要があったのか。

 それは、彼が仕える主人の指示であった。

 主人が密かに目的を果たすまで、自分も、そして主人も正体を知られるわけにはいかなかったのだ。


 路地裏から出てきた男性は、さりげなく、だが慎重に周囲を窺う。

 道行く人々は、誰もこちらを見ていない。


――後をつけてきた者はいないようだな。


 ホッと安堵の息を零した男性は、人ごみに紛れるようにして足を進める。

 やがて、その男性は町はずれにある屋敷へとやってきた。

 屋敷の裏手にはうっそうとした森が広がり、どうにも陰鬱な雰囲気を醸し出している。

 だが、そこは空き家ではなく、れっきとした貴族の持ち物だ。


 その貴族とは、ホースキン男爵である。


 日頃、男爵が暮らす屋敷は町中にあり、それなりに豪華な作りとなっている。

 少々、成金趣味が隠しきれておらず、悪目立ちしている屋敷ではあったが。

 そして、ここは男爵の別邸だ。

 しかも、ごく一部の者にしか知られていない隠れ家である。

 そこにやってきた初老の男性は、ブツブツと小さな声でなにやら唱えた。


 すると、屋敷の扉が音もなく勝手に開く。


 この不可思議な現象に微塵も驚いた様子を見せることなく、男性はそそくさと屋敷の中へと入っていった。

 品がいいとは言えない壺や絵画が飾られている絨毯張りの廊下を進んだ男性は、突き当りにある扉を軽く叩く。

「ポラスでございます。ただいま戻りました」

 声をかけると、中から「入れ」と応えがあり、またしても扉が音もなく開いた。

 ポラスと名乗った男性は一礼し、室内へと足を踏み入れる。

 中央に置かれた無駄に豪華としか言いようのない長椅子に座り、ゴテゴテとした金の指輪をいくつも嵌め、赤ワインを飲んでいる小太りの男性がいる。

 それが、男性の主人であり、この屋敷の所有者であるホースキン男爵だった。

 彼はグイッとグラスをあおり、ワインを空にしてからポラスへと視線を向ける。

「ご苦労」

 一言放った男爵に改めて頭を下げたポラスが、長椅子へと静かに近付く。

「遅くなりました」 

「うまく話はつけられたか?」

 ホースキン男爵の言葉に、ポラスは即座に表情を曇らせた。

「いえ、それが……。なかなか強情な小娘でして、いっこうに首を縦に振らないのです。貧しい暮らしをしているはずなのに、褒美をちらつかせても駄目でした」

 すると、男爵の片眉がピクリと上がる。

「むざむざと引き下がったのか?」

 不機嫌もあらわな声に、ポラスがビクリと肩を震わせた。

「いえ、あの……、だいぶ粘ったのですが……。説得の最中に軍の者が近付いてくるのが目に入りましたので、その場は退散いたしました」

 それを聞いて、男爵の片眉がふたたびピクリと上がる。

「軍の者が? それはたしかか?」

 尋ねる男爵に、ポラスが大きく頷き返す。

「はい、間違いございません。先日行われた慰霊祭で、あの小娘を手伝った若い男でした。髪の色が珍しいので、はっきりと覚えております」

 ポラスの答えに、男爵は片手で自身の顎を撫でた。

 金の指輪が室内灯の明かりを受け、下品な輝きを放つ。

 だが、男爵に苦言を呈する者も、品位をけなす者も、この場にはいない。

 数度、顎先を撫でた男爵が、ゆっくりと息を吐く。

「なるほど、アディス様が見回りをさせているうちの一人だな。まぁ、下手にお前の素性を知られると厄介だから、今回は仕方がなかっただろう」

 お咎めがなかったことに、ポラスの表情が幾分緩んだ。

「ありがとうございます。次こそは、必ずや小娘をここへ連れてまいりますので」

「期待しているぞ」

 男爵がそう答えると同時に、室内の空間が一部だけ不自然に歪み始める。

 そのことに対して、ホースキン男爵もポラスも、声を上げるどころか、表情さえも変えなかった。

 それは驚きすぎて硬直しているのではなく、その現象は彼らにとってすでに見慣れたものになっているからだった。

 ほどなくして歪みが渦を巻き、その奥に闇が生まれる。


 一寸先も見えないほどの闇から現れたのは、髪も瞳の色も纏う服もすべて漆黒で、人間が『悪魔』と呼んでいる者だった。




 長い前髪をサラリと片手で払った悪魔は男爵の向かいにある椅子に腰を掛け、おもむろに指をパチンと鳴らす。

 次の瞬間、なにもないところからワイングラスが一つ現れた。

 そして、もう一度指をパチンと鳴らすと、グラスの中は深紅の液体で満たされた。

「ワインでしたら、こちらを飲んでくださってかまいませんのに。先日手に入れた年代物のワインでして、味は一級でございますよ」

 これまでの横柄な態度が一転し、ホースキン男爵は媚びへつらうような笑みを浮かべ、テーブルに置かれたワインの瓶を手で示す。

 彼の言葉に、現れた悪魔は――足首まで覆うロングドレスを着た女性の悪魔だ――、ゆったりと足を組み、深紫色の口紅が塗られた唇を皮肉気に上げてみせた。

「人間どもがありがたがって飲むワインは、私には物足りないのよ。新鮮な生き血を混ぜた特製のワインじゃないと、私の舌に合わないの」

 そう言って、彼女はグラスに口をつけた。


 なんの生き血かは、聞くまでもない。 

 彼女を初めて召喚した際、ホースキン男爵は生き血の正体を笑顔で告げられた。

 その時は図太い男爵も震えたものだが、今ではすっかり気にならなくなっている。


 グラスの中のワインを半分ほど飲んだところで、悪魔がホースキン男爵へと視線を向けた。

「例の小娘をつれてくることに失敗したようね」

「はい、お恥ずかしながら……」

 ホースキン男爵は苦く微笑み、ポラスは無言で深々と頭を下げている。

 そんな二人の様子に、悪魔の女性がクスリと笑った。

「私が手を貸したら簡単に事は進むけど、町中では不用意に魔力を使いたくないのよ。このことを魔界に知られると、面倒なことになりそうなの。だから、ここに誘い出すまでは、お前たちでやってもらわないと」

「ええ、もう、それは重々承知しております。あなた様には、最後の仕上げだけをお願いいたしますので。どうぞ、見捨てないでくださいませ」

 今にも揉み手をしそうな男爵の媚びへつらう様子に、悪魔の女性はフッと目を細める。

「お前のくだらない虚栄心は、なんとも面白いわ。だから、ちゃんと最後まで付き合ってあげる。あぁ、早くその日が来ないかしら。久々にいい暇つぶしができそうね」

 妖艶な微笑みを浮かべた悪魔の女性は、楽しげに微笑みながらグラスに口を付けたのだった。


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