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小屋に戻り、寝台に入っても、スターチアの興奮は完全に収まっていなかった。
「本当に不思議だったわ」
彼女はクスクスと笑いながら、先ほどの光景を思い出す。
王城に呼ばれるほど広く名が知られた手品師であっても、あのように見事な手品はけしてできないだろう。
「……って、彼はそもそも人間じゃなかったわ。人間にできないことをあっさりやってみせても、それは当然よね」
あの青年があまりにも人間くさい表情を見せるものだから、瞳や髪が黒くても、背中に翼があっても、うっかり悪魔であることを忘れてしまう。
最近は、特にそうだ。
だからといって、スターチアにはどうといったことでもない。
これまでと同様に、周囲の者たちとは適度に距離を取りつつ、日々を過ごしていくだけだ。
相手が人間であろうと悪魔であろうと、彼女の生活はなにも変わらないのだ。
フッと短く息を吐いたスターチアは、静かに目を閉じる。
明日も変わらずパンを焼いて、公園に出掛けるのだ。そろそろ、寝なくては。
そう思うものの、なかなか眠りが訪れない。
ゴロリと寝返りを打った彼女は、長く息を吐く。
「やっぱり、ちゃんとしたお礼をしたほうがいいわよね」
唐辛子入りの激辛パンはいたずら心から作ったところもあり、お礼の意味でジェンドに食べさせたわけではなかった。
それに、スターチアが望む通りになにもないところから物を出し、それを見事に消してみせた。
いや、最終的には望んでいた以上の魔術を披露してもらった。
彼の気まぐれによるものだったかもしれないが、借りを作ったままにしておくのは、どうにも嫌だったのだ。
「パウンドケーキを食べるくらいだから、甘い物のほうが好みなのかしら」
スターチアは先日のことを思い出し、ポツリと呟く。
なんでも食べると言った悪魔の青年が以前の礼に指定したのはパウンドケーキだったのだから、割と甘い物を好む舌の持ち主なのかもしれない。
――そろそろ、裏山の林檎が完熟になる頃ね。それを使って、パイを焼こうかしら。カスタードクリームを入れたら、もっと喜ぶ?
なにを作ろうかとあれこれ考えているうちに、徐々に眠くなってきた。
スターチアは小さくあくびを零し、ふたたびまぶたを閉じたのだった。
翌朝、いつもの時間に目を覚ましたスターチアは、いつもの日課をこなし、朝食を済ませてパンを焼き、小屋を出た。
乗合馬車を使って公園に向かうと、すでに数人の常連たちの姿がある。
スターチアは早足で彼らに歩み寄り、いつものベンチでパンを売るための準備を始めた。
この日も手作りパンは順調に売れ、やがて完売となる。
「相変わらず、スターチアが作るパンはよく売れるねぇ。ま、美味しいから当然なんだけど」
マールはふくよかな頬に笑みを浮かべ、スターチアの細い肩をポンと叩く。
その言葉に、アディスが同意する。
「ああ、その通りだな。君が焼くパンは素朴なものが多いが、その分、しっかりと美味さを感じられる。パン作りの本質が分かっている証拠だ」
二人の言葉に、スターチアが困ったように笑う。
「そんなに褒めないでください。私の腕ではなく、祖父の教え方がよかったんですよ」
うっすらと頬を染めた彼女は、照れを隠すように店じまいの準備をそそくさと進めていた。
そんな彼女の様子に、マールとアディスがクスッと笑う。
「本当に、アンタはいい子だねぇ。是非とも、息子の嫁になってほしいわぁ。一度でいいから、会ってみないかい?」
すると、マールに続いてアディスも口を開く。
「なあ、スターチア。軍には君と年齢の近い独身男性も多くいるし、その中には君が作るパンを応援している者もいる。見合いというほど形式張ったものではなく、軽い茶会にでも参加してみないか?」
二人とも、町はずれに一人で暮らしているスターチアの身の安全を本気で心配していた。
その気持ちはスターチアに伝わっていたものの、彼女は例のごとく首を横に振る。
「私のことを気に掛けてくださって、ありがとうございます。ですが、誰かと一緒になるつもりは、やはりありませんので」
スターチアはやんわりと、だが、はっきりと言葉にした。
そして、ベンチの上をすっかり片付けると、マールとアディスに頭を下げる。
「今日も、ありがとうおございました。では、失礼します」
微笑みを浮かべるスターチアを強引に引き留めることはできず、二人は僅かに肩をすくめた。
「気を付けて帰るんだよ」
「なにか困ったことがあれば、いつでも相談に乗るぞ」
「はい」
スターチアは改めて頭を下げると、ゆっくりその場を後にした。
ほっそりとした後ろ姿を見送っていたマールとアディスは、どちらともなくため息を零す。
「若い娘が、あんな辺鄙なところで独り暮らしをしているなんてねぇ。私は心配で心配で、たまりませんよ」
マールの言葉に、アディスが頷く。
「たしかにな。町中なら軍の者に見回りをさせることもできるが、あの地域を管轄している保安部の手前、こちらもあまり目立ったことはできなくてな。かといって、見回りの者をこっそり手配すると、かえって怪しまれそうだ」
「せめて、頼りになる誰かと一緒に暮らすか、こっちで暮らしてくれると安心なんですがねぇ」
「しかし、スターチアには、まったくその気がないようだ。なにがそこまで、彼女を頑なにさせているのやら……」
苦々しい笑みを浮かべるアディスを、マールが見上げる。
「ところで、アディス様。パン屋が壊されることも、公園のベンチが汚されることもなくなりましたが、もう安心していいのでしょうか?」
その問いかけに、アディスは表情を引き締めた。
「実行犯と思しき人物は捕らえたが、私の勘がまだ事件は解決していないと告げている。だが……、怪しいと思っている人物を引き続き張り込んでいるものの、今のところは大きな動きを見せなくてな。なんとも言えない状況だ」
「そうですか……。このまま、何事も起きないといいですねぇ」
スターチアの姿が見えなくなっても去っていった方向から視線を逸らすことなく、マールが静かに呟く。
「そうだな」
マールの言葉に、アディスも同じく静かに返した。
その頃、スターチアは町中で買い物をしていた。
パン作りに使うお酒が切れかかっていたので、買って帰ろうとしたのである。
スターチアのパンを買いに来る客には小さな子供を持つ者もおり、お酒を使ったパンやケーキはそれほど多く作らない。
そのため、わざわざ配達してもらうほどの量を買うこともなかった。
いつもの洋酒を買って店を出たスターチアは、乗合馬車の停留所へと向かう。
その時、彼女に声がかかった。
「あの、もしもし? 酒屋から出てきたお嬢さん」
落ち着いた雰囲気を持つ初老の男性の声に、スターチアが足を止める。
聞き覚えのない声だが、自分にかけられたものだと分かった彼女は振り返った。
「私のことでしょうか?」
首を傾げる彼女を見て、薄くシワが刻まれた男性の頬に安堵の笑みが浮かぶ。
「ええ、ええ、そうです。先日の慰霊祭で、軍の方々と一緒に肉入りのパンを販売されたあなたのことです」
慰霊祭ではパンを販売した者は他にもいたが、『軍関係者と一緒に』と言えば、スターチアしかいなかった。
――人違いってことではなさそうね。でも、なんの用かしら。
不思議そうにしている彼女に向け、こざっぱりとした身なりのその男性がさらに話を続ける。
「実はですね、私が仕えている主人が、あなた様の作るパンを食べたいと申しておりまして。できましたら、屋敷で作っていただけないかと。ちょうどお姿を目にしましたので、図々しいながらもお願いに参りました」
とても光栄な話だが、スターチアは困ってしまった。




