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楽し気にクスクスと笑っているスターチアを、ジェンドはなんとも言えない気持ちで眺めていた。
――人間にとって最大の脅威と言っても過言ではない悪魔の俺に、とんでもない物を食わせやがって……。
それは非常に腹立たしき事態であり、普段のジェンドなら、そんな愚かな人間を一瞬で消し炭にしていただろう。
だが、スターチアに対しては、なぜかそういった気持ちがまったく湧いてこなかった。
――俺に些細な復讐をして喜ぶなど、本当に変わっている。
先ほど、ジェンドは思いがけず特製の激辛パンを口にしたことで慌てたが、すでに落ち着いていた。
口の中が荒れていることもないし、舌がひりついていることもない。
彼にかかれば、死んだ者を生き返らせる以外のことは容易なのだ。辛さを取り去る魔術を展開することは、息をするのと変わらない。
――相変わらず、俺を飽きさせない変な女だ。そして、相変わらず欲のない女だな。
昨晩、彼が披露した数々の魔術をその身で体験しても、スターチアはジェンドを利用するようなことはいっさい言ってこない。
前々から思っていたことだが、そのこともジェンドがスターチアを風変わりで面白いと感じている点でもあった。
ジェンドにとって人間は、心根が腐っていて、愚かな生き物である。
そう考えるようになったのは、人間が悪魔に対して望むことが醜悪な欲望ばかりだったからだ。
気に入らない相手を貶める。
金銀財宝、もしくは魅力的な容姿を持つ男性や女性を手に入れたい。
なんにせよ、『自分の欲を満たすための願い』が、悪魔であるジェンドにこれまで幾度となく向けられてきた。
とはいえ、そんな醜悪極まりない人間ばかりではないことも、ジェンドは知っている。
病の床に伏した父親を助けてほしい。
頭部を大怪我したことで失われた母親の視力を取り戻してほしい。
干ばつ続きの村に雨を降らせてほしい。
時には、己の身を差し出してまでも、そのような願いを訴えかけてくる人間がいた。
だが、スターチアはなにも望まない。
自分のための願いも、誰かのための願いも。
心の奥底で死を切望しながらも、悪魔への腹いせが成功して喜んでいるという、あまりにも変わった人間なのだ。
――喜んでいるのは、腹を立てた俺が命を奪うと考えたからか?
だが、ジェンドはすぐさま否定する。
なにを考えているのか読めないスターチアだが、そういった思惑があって、あの激辛パンを作ったのではないことは分かっていた。
単純に面白がっているだけなのだと、彼女の様子を見れば伝わってくる。
――それにしても、俺はどうしてあんなことを……。
昨夜、ジェンドがスターチアに取った態度は、それこそ悪魔らしからぬものばかりだった。
口調こそ乱暴だったが、その実はどれもスターチアの体調を心配してのである。
無意識のうちに放った言葉と魔力だったことが、ジェンドを驚かせていた。
――やっぱり、コイツといたら、調子が狂う。
人間が生み出した『悪魔像』から、どんどん遠ざかっている。
それに気付いていても、なぜか自分を制御できない。
今のジェンドの言動が自分だけではなく、魔界全体に悪影響を及ぼしかねないと分かっているのだが、どうしてもスターチアの世話を焼いてしまうのだ。
――きっと、コイツが普通の人間と違うからだ。
目の前で魔術を展開しても、己の欲のために悪魔を利用することを爪の先ほども考えそうにないスターチアだからこそ、安心して――というのは少々違うかもしれないが――ジェンドは魔力を振るう。
そんな自分がなんだか滑稽なのだが、嫌な気はしなかった。
同時に、調子が狂い出したと感じるジェンドの心の奥で、名前の付けようのないフワフワしたものが、一回り大きくなる。
ジェンドが悪魔であることを選んで以降、湧き上がることのなかった感情が。
――なにも望まない愚かな人間の女に、俺はなにを望む?
その問いに答えられる者は、この場にはいない。
月は変わらず、二人を優しく照らしていただけだった。
しばらく月を眺めていたスターチアは、フゥと息を吐く。
「そろそろ、部屋に戻るわ」
仕返しが成功したことで気分がよくなった彼女は、いつにない笑顔を悪魔の青年に向けた。
「……そうか」
すると、短い一言が返ってきただけである。
――おかしいわね。いつもなら、嫌味の三つや四つ、立て続けに返ってくるのに。
スターチアが首を傾げると、ジェンドが眉根を寄せた。
「なんだ?」
低い声ではあるが、不機嫌さはそこまで感じない。
やはり変だと思いながらも、スターチアは口を開く。
「ううん、なんでもないわ。ただ……、あなたの様子がちょっと違うなと思っただけなの」
「俺の様子、だと?」
「ええ、そうなの。……もしかして、あのパンが原因?」
スターチアがオズオズと問いかけた。
パンを食べた直後のジェンドが慌てふためいた姿を見て胸がスッとしたが、それは、『悪魔なら、この程度なんてことはない』と思っていたからである。
もし、特製激辛パンの影響が今になって出てきて彼の具合が悪くなったのなら、さすがに申し訳ないと思ったのだ。
心配そうに見上げてくる彼女に、ジェンドはフンと鼻を鳴らす。
「この俺が、あの程度のことで体を壊すはずないだろ」
体の前で腕を組み、偉そうに胸を張ってみせる姿は、いつも通りだ。
それでも、スターチアは申し訳なさそうに問いかける。
「本当に? 本当に、大丈夫なの?」
「だから、大丈夫だと言っただろうが。そんなに疑うなら、唐辛子を十本そのまま食ってやろうか?」
ジェンドはニヤリと片頬を上げ、右手をスッと差し出した。
次の瞬間、彼の手の平には真っ赤な唐辛子の山が現れた。
「えっ?」
驚くスターチアにかまうことなく、ジェンドは左手で唐辛子を一本摘まむと、ふたたびニヤリと笑う。
「しっかり見ておけよ」
そう告げた漆黒の青年は口を開け、摘まんだ唐辛子を自分の口へ……。
「わ、分かったから!」
入れる前に、スターチアの声が辺りに響き渡った。
「お願い、やめて! あなたが平気だってこと、よく分かったから!」
スターチアは肩掛けをきつく握り締め、「色々、ごめんなさい」と、小さな声で謝罪を述べる。
――腹いせをしたかったくせに、罪悪感に苛まれるとは……。本当に、コイツは面白い。
そんな彼女の様子に、ジェンドはクツリと喉の奥で笑った。




