(58)
スターチアはいつものように朝の日課をこなし、パンを籠に詰めて小屋を出た。
寝室の窓から見たように、空は明るく晴れ渡っている。
清々しい気分で、彼女は爽やかな空気を吸い込む。
やはり、陽の光を浴びていると生きる活力が湧いてくるようだ。
そう感じたスターチアだったが、ハッと我に返る。
あれほど、天国にいる家族、恋人、親友と一日も早く会いたいと思っていたスターチアは、自分の心境の変化に少し驚いた。
「村を出てからずっと、こんな気持ちになったことはなかったのに……」
美味しいパンを作りたい、お客に喜んでもらいたいという思いはたしかにあったものの、こんなにも晴れやかに前向きな気持ちになったことは、これまでなかったのだ。
「どうしてかしらね。少しでも早く寿命が尽きることを願っていた私なのに……」
ゆっくりと流れる白い雲を見上げながら、スターチアがポツリと呟く。
そして、月を眺めるようになった頃のことを思い返していた。
スターチアが毎晩月を眺めるのは、時の流れをその目で確認するためだ。
太陽の形は常に丸いため、時が過ぎている実感がない。
季節によって移り変わる辺りの景色は折々で違う姿を見せてくれるが、その変化は割と大雑把なものだ。
最近は昼間が長くなった、木の葉が徐々に枯れてきた、など、ある程度の時間が経ってから感じる変化であり、それによって一日が過ぎ去ったと感じることはない。
ところが、毎日確実に姿を変える月は、確実に一日が過ぎ去ったことを教えてくれるのだ。
自死を最大の禁忌としているルーオ教の熱心な信者であった祖父母や両親の教えにより、スターチアは自ら死の淵に飛び込むことにはさすがに躊躇いがあった。
だから寿命を迎える日が近付いていることを、彼女は一日の終わりに確かめていたのである。
そんなスターチアが、生きる活力が湧いてくるようだと思うことは、自分でも信じられなかった。
もちろん、天国にいる彼らに会いたい気持ちは変わっていない。
ただ、ほんの少しだけ、生きている今の世も悪くないと思えたのだ。
「どうして……?」
吹かれた風に彼女の月色の髪がフワリと揺れるが、それだけだ。彼女の呟きに答えが返ってくることはない。
スターチアはヒョイと肩をすくめ、乱れた前髪を手で直す。
「そういえば……、昨夜、あの子たちの夢を見たような気がするわ」
あの子と言うのは、彼女の弟たちだ。
すでに亡くなり、もう二度と会えない双子の弟たちである。
夢の内容は詳しく覚えていないが、弟たちが現れ、泣いていたように思う。
なぜ、弟たちが泣いていたのか、自分たちがどこにいたのか、そこまでスターチアは覚えていなかった。
本当に弟たちが夢に現れたのかさえ、実は曖昧ではあるのだが。
「もしかして、私にしっかりしろと言いたかったのかしら? 私が死ぬことばかり考えているから……」
その可能性はあるかもしれないと思いながら、スターチアはふたたび肩をすくめる。
「寿命を迎えるまで、私はこの世で生きて行かなくちゃいけないんだもの。どうせなら、楽しい気持ちで生きろって、あの子たちは言いにきたのかもね」
このように考えられるようになったスターチアは、これまでとやはりどこか違う。
過去の彼女なら、「早くあの世で私に早く会いたくて、あの子たちは泣いていたんだわ」と、昨夜の夢をそのように解釈したはずである。
自分の変化にどこか戸惑いつつも、「まぁ、前向きに生きることは、悪いことではないもの」と呟き、スターチアは乗合馬車の停留所に向かって歩き出した。
その日の夜、スターチアは屋根の上に登って月を眺めていた。
今夜は雨が降る様子もなく、月も星もよく見える。
彼女の傍らには、小ぶりな包みがある。生地にも具にも唐辛子を大量に使った特製のパンだ。
もちろん、食べるのはスターチアではなく、例の漆黒を纏う悪魔である。
「早く現れないかしら」
無意識で呟いたその言葉に、彼女はまるで気付いていない。
多少の腹いせのために唐辛子入りパンを食べさせてやろうと思っているとはいえ、ジェンドの登場を心待ちにしたことは今まで一度もなかったのだ。
これも、彼女が前向きな気持ちを抱きかけているからこその変化だろう。
幼い頃に覚えた童謡を自然とスターチアが口ずさんだ時、彼女は息を呑んだ。
「私、なにを考えていたの?」
――あの悪魔が早く現れないかと考えるなんて、どうかしているわ。
それは、よくない傾向だ。
誰にも頼らず、心を許さず、一人で生きていくと、村を出た時に硬く心に決めたのだ。
その決心が揺らいでいることに気付き、スターチアは動揺する。
「……ええ、そうね。前向きな気持ちになるのはいいとしても、誰かを心待ちにするようなことがあってはいけないわ。たとえ、その誰かが人間ではない悪魔であっても」
自分に言い聞かせた彼女は、視線を伏せて長く息を吐いた。
――なんだか、心の中がぐちゃぐちゃだわ……。
もう一度深いため息を零した時、バサリと羽ばたきの音が彼女の耳に届く。
「おいおい、なんだよ。そのしけたツラは」
呆れきった声が、スターチアの頭上に降ってくる。
おもむろに顔を上げると、体の前で腕を組み、偉そうにしている悪魔の青年が宙に浮いていた。
「……悪かったわね、もともとこんな顔なのよ」
ツンと顎を反らして素っ気なく返すスターチアだったが、ジェンドはなぜか楽し気に鼻を鳴らす。
「さっきのしょぼくれた顔よりは、そのほうがずいぶんとマシだな」
ニヤリと口角を上げた漆黒の青年は、スターチアの傍らに置かれている小さな包みに視線を落とした。
「それはなんだ?」
不思議そうに呟いたジェンドは、スターチアの前に片膝をつく。
そして、スッとその包みに手を伸ばした。
「パンか?」
「ええ、そうよ。これはあなたに渡すパンなの。昨日、色々と面倒をかけたから、お礼にと思って作ってきたのよ」
スターチアの答えに、ジェンドがいぶかしがる。
「この大きさ……。また、胚芽パンか? 俺は、あんなつまらないパンは好みじゃない」
なんでも食べるし、毒を食べても平気な悪魔でも、一応、味の好みはあるようだ。
スターチアはクスッと小さく笑う。
「心配しないで、これは生地にも具にも手間暇かけた特製の新作パンよ。そんじょそこらのパンとは違うんだから。さっそく食べてみて」
「そうか、そうか。愚かなお前でも、俺に感謝することを覚えたようだな。いい心がけだ」
促されたジェンドは、長い指で包み紙を開いた。
「まぁ、見た目は普通だが、刺激的な香りが食欲をそそるな。人間のお前が作ったにしては、悪くないだろう」
尊大な態度で言ってのけた彼は、パンに噛り付く。
三秒ほど経過した辺りで、ジェンドの両眉がグンと跳ねるように上がった。
さすがの悪魔でも、丸ごとの唐辛子を十本近く使ったパンは厳しかったらしい。
「な、なんだ、このパンは!?」
慌てふためいた青年は、自分の口に向けて右手をヒラリと振る。
感じている辛さを消す魔法を放ったのか、徐々にジェンドの様子が落ち着いていった。
「……おい」
低い声を発した彼が、ギロリとスターチアを睨み付ける。
しかし、毎度のことながら、恐れおののくスターチアではない。
「ありきたりのパンだと、あなたには物足りないだろうと思ったの。それで、人間だったら食べることができない特製激辛パンにを作ったのよ。毒は平気でも、辛い物は苦手なのねぇ」
先ほど、『しけたツラ』と言われたことにほんの少しムッとしていたスターチアは、してやったりと頬を緩める。
――こんなやり取りも、悪くないわよね。だって、私はこの悪魔に頼るつもりなんてないし、友人だとも思ってないんだもの。
ぐちゃぐちゃになった心の中が、少しだけ軽くなったように思えたスターチアだった。




