(57)
冷え切った体が温まり、そして、布団の中が程よく温かったおかげで、スターチアはすやすやと心地よさそうに眠っている。
粗末な寝室内には、規則的に繰り返される彼女の寝息と、暖炉の火が立てるパチパチという小さな音が響いていた。
寝台の横に簡素な椅子を寄せて腰を下ろし、その音を聞きながらスターチアの寝顔を眺めている者がいた。
もちろん、強盗ではなく、悪魔のジェンドだ。
彼は火の番という名目を自分に言い聞かせ、この部屋に留まっているのである。
なぜ、そのようなことをいちいち自分に言い聞かせているのかも分からずに。
「顔色は悪くないな」
これまで無言だったジェンドが、安堵したようにポツリと呟く。
彼が屋根にいるスターチアの姿を発見した時、怒りにも似た感情がこみ上げてきた。
彼女がこんな寒い夜に屋根の上にいるのも、雨に打たれたままでいるのも、腹立たしさに近いものがあったのだ。
人間は愚かで救いようのない生き物だと常々感じていたジェンドだが、ここまで底なしの馬鹿と言ってもいい人間に出会ったことがなかった。
「俺にパウンドケーキを渡すため? そのために、あの冷たい雨の中、わざわざ待っていたというのか?」
いくら体の丈夫さに自信があるとはいえ、スターチアの行為は愚かとしか言いようがなかったのである。
とっさに魔力を使い、彼女の髪や服を乾かしたのは、ほぼ無意識だった。
気付いた時には、すでにジェンドは術を放ち、スターチアを怒鳴りつけていたのである。
その後、いっこうに自分の身を顧みない彼女の態度に苛立ちが募り、結局、彼はあれやこれやと世話を焼き、今に至ったというわけだ。
発見した時には紙のように白くなっていたスターチアの顔だが、今は健康的な赤みが差し、いつも通りの顔色となっていた。
「本当は、俺にパウンドケーキを渡すために待っていたわけではないのだろう?」
彼の問いかけに、当然、眠っているスターチアは答えない。
また、ジェンドも答えを求めていなかった。
ここ数日のスターチアの様子を見ていたら、彼女の中にあるやりきれなさが大きさを増していることが分かっていたからだ。
ジェンドは小さくため息を零し、彼女の頬にかかる月色の髪を指でソッと払う。
その時、スターチアのまぶたがゆっくりと持ち上がった。
彼女はパチリと一度だけ瞬きをすると、不思議そうな声で呟く。
「……ジェンさん?」
公園でスターチアを見守ってくれている貴族風の青年の名前が、なぜか口からスルリと零れた。
ここにいるのは漆黒をまとう悪魔のジェンドであり、薄茶色の髪と青い瞳を持つあの青年とは似ても似つかないというのに。
呼ばれたことに対し、ジェンドは「違う」とも、「そうだ」とも答えなかった。
ただ静かに、スターチアを見つめていただけである。
しばらくして、スターチアが僅かに苦笑を浮かべる。
そして、ふたたびスゥスゥと小さな寝息を立て始めた。
そんな彼女の髪を一筋掬って人差し指に絡め、ジェンドが囁きかける。
「……お前のその黒い瞳は、誰を映す?」
渇いてサラサラな月色の髪は、スルリと解けてしまった。
改めて指に絡めたジェンドは、小さな声で苦し気に囁く。
「……お前は、その細い体にどれほどの悲しみを背負っている?」
彼の声は、なぜか眠っているスターチアの意識に届いた。
――泣きそうな声を出しているのは、だぁれ?
彼女が真っ先に思い浮かべたのは、双子の弟たちだ。揃って甘えん坊で、泣き虫で、いつまで経ってもスターチアの後ろをついて回っていた。
もしかしたら、自分の足の速さについてこられなかった弟たちが転んだのかもしれない。
スターチアの右手がピクリと動き、僅かに持ち上がる。その手がゆっくりと、傍らにいるジェンドに向かって伸ばされた。
「泣かない、で……、大丈夫、よ。お姉ちゃんが、手を、繋いで、あげる、わ……。お家に、帰りましょ……」
眠りの国の住人であるスターチアは覚束ない口調で、すでに亡くなっている弟たちの幻影に話しかけていた。
宙を彷徨うほっそりした手が、ふいに強く握り締められる。
――あの子たちの手、こんなに大きかったかしら?
やや骨ばって大きな手は、とても子供のものとは思えない。
しかしながら、ふたたび眠りの淵に落ちていったスターチアは、追究することなく、ゆっくりと意識を手放した。
しばらくの間、その存在を殺すようにジッとしていたジェンドだったが、スターチアの手がスルリと解けた瞬間、ゆっくりと息を吐いた。
「やはり、まだ過去の呪縛からは抜け出せないようだな……」
彼女の口ぶりから、先ほどの寝言はスターチアの弟に向けてのものだとジェンドは気付く。
数日前、スターチアから親しい者たちの死について聞かされており、彼女自身も、その現実を必死に受け止めていた。
だが、スターチアの心は、悲しい現実から逃れられないままなのだ。
だからこそ、彼女は死を望むのだろう。
これ以上、悲しまないで済むように、と。
ジェンドはスターチアの手を取ると、掛け布団の中へと戻してやる。
「なぁ、少しくらい、弱音を吐いてもいいんだぞ」
顔見知りの者には言えなくても、しがらみにもとらわれない自分にならなにを話してもいいのだと、ジェンドは眠っている彼女に囁きかけた。
起きているスターチアには、恥ずかしさが先立って言えないからだ。
しかし、次の瞬間、彼は自嘲気味に笑う。
「俺は信用ならない悪魔だから、それも無理な話か……」
少々優しくしてやっただけで、スターチアはかなり混乱していた。そのくらい、普段のジェンドの言動は優しさとはかけ離れているのだろう。
それについては、ジェンドも自覚している。この性格で、長いこと生きてきたのだから。
深く息を吐いたジェンドは、椅子の背に力なくもたれかかる。
「なぁ……。俺は人間たちが想像の末に生みだした『悪魔』とは違う存在だとしたら、お前は俺のことを信じてくれるか?」
僅かに掠れた彼の声に返ってくる答えはなかった。
翌朝、寝室のカーテン越しに柔らかい日の光がうっすら差し込んでくると、スターチアの意識が徐々に浮上していく。
「ん、んん……」
彼女は両腕を上に伸ばし、ゆっくりとまぶたを持ち上げた。
見慣れた天井の木目がはっきりと視界に映っているので、熱を出している様子はない。
気分も、なんだかやけに晴れやかだ。
「はぁ、よく寝た……」
もう一度背伸びをしたスターチアは、スルリと寝台を抜け出す。
そして、今はもうすっかり灰になってしまった暖炉の薪を見て、昨夜のことを思い出した。
「色々と、信じられないことばかり起きたわね」
ポツリと呟いた彼女は、窓に歩み寄って勢いよくカーテンを開ける。
窓の外は明るく、青い空には小さな白い雲がいくつか浮かんでいた。
ここ最近では、一番の晴天である。
「あの捻くれ悪魔が妙に親切だったから、今日は雨が降るどころか、猛烈な嵐になるかと思っていたんだけど」
空を見上げながら、スターチアはクスクスと楽しそうに笑っていた。




