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 はたしてそれが礼になるのかはなはだ疑問である唐辛子入りパンの制作を決心したスターチアは、すっかり乾いた毛先をパサリと手で払う。

「馬鹿な私がタチの悪い風邪を引かないうちに、今すぐ寝室に行くわよ。だから、あなたもさっさと、帰ったら? どうか、身が凍るほどの悪夢を」

 別れ際に告げるいつものあいさつに毒を加え、スターチアが素っ気なく告げる。

 そんな彼女に、ジェンドはヒョイと肩をすくめてみせた。

「悪魔の俺が、悪夢程度で震えるかよ。ったく、相変わらずお前は変な女だな」

 ジェンドがやや呆れたように苦笑を零した瞬間、スターチアの視界に映る景色が変わる。

「……えっ!?」

 驚きの声を上げたスターチアの目に入ってきたのは、使い込まれた上掛け布団がかかっている見慣れた寝台だった。


――これは……、屋根の上から部屋に移動した時と同じ魔法?


 それ以外に考えられないが、突然のことに驚いて、また、どうしてわざわざ移動の魔法をあの悪魔の青年が使ったのかが分からず、彼女は混乱していた。

 そんなスターチアの左肩を、誰かが後ろからトンと押す。

 混乱に陥っていた彼女は、突然の衝撃に悲鳴を上げた。

「きゃぁぁっ!」

 以前、マールから言われたことが、一瞬で彼女の脳裏に蘇る。


 若い女性の独り暮らしは物騒だと。

 万が一、強盗が押し入ったら、どうするのだと。


――ほ、本当に、強盗が!?


 甲高い悲鳴を上げたスターチアは、夜着の胸の辺りをギュッと握り締め、勇気を出してパッと振り返る。

 すると、そこには人差し指を耳栓代わりにして、盛大に顔をしかめている漆黒の悪魔が立っていた。

「……うるせぇな。こんな至近距離で、大声を出すんじゃねぇよ」


――あなたが驚かせたからじゃない!


 文句の一つも怒鳴りつけてやりたいスターチアだったが、心臓の動機が激しすぎて、なにも言い返すことができない。

 せめてもの反抗心で、悪魔の青年を強く睨んでやった。

「なんだ、その顔は。一瞬で寝室に運んでやった俺に礼を述べるどころか鋭く睨み付けるとは、いい度胸だな」

 耳から指を外したジェンドが、フンと鼻を鳴らす。

 そんな彼に向けて、いくらか動悸が収まったスターチアは言い放つ。

「いきなり部屋を移動していて、訳が分からない状態のところを後ろから肩を叩かれたら、誰だって悲鳴を上げるわよ!」

 噛みつかんばかりの彼女の様子に、ジェンドは楽しそうにニヤリと笑う。

「悪魔の俺に堂々と悪態を吐く強心臓のお前でも、こんな風に悲鳴を上げるんだな。これは、面白い。今後、いい暇つぶしができそうだ」

 それを聞いて、スターチアの顔が青ざめる。

「お願いだから、それはやめて。あなたが満足する頃には、私の心臓が止まっていそうだわ」

 いくらスターチアが同年代の女性より肝が据わっているところがあるとはいえ、こんなことを何度も繰り返されたら、さすがに身が持たない。

 本気でお願いするスターチアを見て、ジェンドはふたたびニヤリと笑う。

 同時に、スターチアは自分の失言を悟った。


――人間を虫けら同様に思っているこの捻くれ悪魔にこんなことを言ったら、かえって面白がるかもしれないじゃない! ああ、失敗したわ!


 いくらスターチアが早くこの世から去りたいと思っていても、このようなことが原因で死を迎えるのは納得がいかない。

 かといって、この捻くれ悪魔を説得できる自信がなかった。

 また、スターチアがなにか言ったところで、揚げ足取りがやたらとうまい漆黒の青年がさらに面白がるだけだと、容易に想像ができる。


――どうしたらいいのかしら……。


 ビクビクしながら様子を窺っていると、なぜかジェンドの表情からは意地悪な笑みが消えた。

 だが、代わりに尊大な態度で彼は体の前で腕を組む。

「お前の心臓が止まったら、暇つぶしの相手がいなくなる。だから、やめてやるよ。寛大な俺様に深く感謝しろ」


 スターチアとしては、なんだか納得いかない言葉だが、素直に頷き返しておいた。




 当面の間はスターチアの心臓の無事が確保されたという謎の会話が終わった。

 彼女は長々とため息を零し、「さっさと寝てしまおう」と、心の中で呟く。

 寝台に向かい、上掛け布団をめくったところで、視界の端でなにかが揺らめいたように思えた。


――なにかしら……。


 不思議に思い、スターチアは左斜め後ろに視線を向ける。

 すると、火を入れた覚えのない暖炉で、なぜか炎が揺らめいていた。

 そして、この部屋が少しも寒くないことを、いまさらながらに気付いたのである。

 先ほどのスターチアは前触れなしの移動魔法に驚き、それどころではなかったのだ。


――もしかしなくても、あの悪魔よね?


 スターチアは体ごとゆっくり振り返ると、入り口の扉に寄り掛かっているジェンドを見る。

 唖然としている彼女の様子に、ジェンドは口角を僅かに上げた。

「俺様は気が利くだろう」

 腕を組みながらの言葉は偉そうだが、嫌味な感じはしない。

 スターチアは反抗的な態度を見せることはなく、「ええ、本当に。どうもありがとう」と、礼を述べた。

「やはり、素直なお前は調子が狂う。いいから、さっさと寝ろ」

 ジェンドはまたしても片手で野良犬や野良猫を追い払うようなしぐさを見せ、スターチアに寝台へ入るようにと促す。

 立て続けにこれまで体験したことのない事態に見舞われたスターチアは精神的に疲れており、コクンと頷き返すと、改めて上掛け布団をめくった。

 スルリと脚を忍ばせたら、ホカホカと温かい。

 まるで、晴天時に干した布団のようだ。

 悪魔による親切心と魔法のたたき売り状態に、彼女は内心首を傾げる。

 だが、あまりの心地よさに、それはどうでもいいことのように思えてきた。

「あったかい……」

 無意識のうちにポツリと呟き、スターチアは静かに息を吐く。

 その温かさは彼女の細い体を優しく包み込み、眠りの国へといざなう。


――そういえば、あの悪魔はいつ帰るのかしら?


 いまだに寝室の扉にもたれかかっている漆黒の青年に問いかけようと思いつつも、トロリと落ちてきたまぶたに逆らえず、スターチアはスウッと眠りに落ちていった。


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