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 程よい温度のお湯でしっかりと体を温めたのち、スターチアは浴室から出た。

 脱衣所で新しい服に着替えると、髪の水分をフカフカの布でしっかりと拭う。

 それでも、完全に乾くことはない。

 いつもは、寝るまでに時間があるので、寝台に入ることにはだいぶ乾いている。

 だが、今夜は半渇きのまま寝ることになりそうだ。

「これ以上、無駄に起きていると、あの悪魔にうるさく言われそうだもの。どうせまた、『さっさと寝室に行け!』って怒鳴りそうね」 

 スターチアはヒョイと肩をすくめ、苦笑を零した。


 布をもう一枚使って髪の水分をできる限り拭ってから、スターチアは櫛を手に取った。

 そして鏡を見ながら、丁寧に髪を梳かす。

 その時、スターチアは鏡の中の自分と目が合った。

「いつ見ても、真っ黒ね」

 苦笑を零しつつ、彼女は視線を髪へと移す。

 鏡に映る自分の瞳の色はまだ好きにはなれそうにないが、この髪の色は我ながら気に入っている。


――あの人に、『月の光と同じ色で、すごく綺麗だ』って言ってもらえた髪だもの。


 かつて恋人の青年に言われたことを、スターチアはふと思い出す。

 胸の奥がフワリと温かくなると同時に、ギュッと締め付けられる苦しさも味わう。

 何年経っても、不慮の事故で失った恋人の存在は彼女の胸に残っているのだ。

 静かにため息を零したスターチアは櫛を元の位置に戻し、脱衣所を後にする。

 食卓が置かれている部屋に戻ってくると、彼女の目には艶やかな黒髪と黒衣をまとった青年の背中が映った。

 スターチアは思わず足を止める。


――まだ、いたの?


 悪魔の青年が部屋に残っている理由はないはずだ。

 それとも、スターチアを連れて転移し、風呂の湯を沸かした礼を催促するために残っていたというのだろうか。

 戸惑いがちにふたたび歩き始めたスターチアの足音を聞き、ジェンドが振り返った。

 そして、すぐさま彼はグッと眉根を寄せる。

「人間どもの間では、『馬鹿は風邪を引かない』と言われているそうだが……。お前は、それでも風邪を引きそうだな」

 どうしてそのようなことをいきなり言われたのか理解できないスターチアは、食卓の脇で足を止め、ソッと首を傾げた。


 次の瞬間、温かい風がフワリと彼女を包む。

 それは、屋根の上で雨に濡れたスターチアを取り巻いたものと同じだ。


「えっ?」

 スターチアが短く声を上げた時には、彼女の髪はすっかり乾いていた。

 静かな風が止むと、彼女の月色の髪がフワリと揺れて肩に落ちる。


――もしかしなくても、わざわざ乾かしてくれたのよね。


 いったい、今夜の青年はどうしたというのだろうか。

 悪魔が親切心を大盤振る舞いしてくるので、スターチアはなんとなく居心地が悪い。

 それでも、一瞬で半渇きの髪を乾かしてくれた彼の魔術には感謝するべきだろう。

 彼女が礼を述べようとした瞬間、先にジェンドが口を開いた。

「いつまで、ボサッとそこに突っ立っているんだ? せっかく温まった体を冷やしたら、それこそ大馬鹿者だぞ」

「えっ、あ……、ああ、そうね。早く寝台に入ったほうがいいわね」

 スターチアは礼を述べるきっかけを逃し、ぎこちなく答える。

「ほらほら、さっさと行けよ」

 そんな彼女に対し、ジェンドは先ほどのようにヒラリと手を振ってスターチアを追いやる。

 もともと寝室に行こうとしていたので、彼の言葉に反論するつもりはないが、スターチアには気になることがあって、その場から離れられないのだ。


――どうして、まだ帰らないの?


 食卓の上には、パウンドケーキを包んでいた薄紙だけが置かれている。

 どうやら、すっかり食べ切ったようだ。

 

――私はちゃんとお風呂で温まってきたし、髪は乾かしてもらったし。それに、あの悪魔はパウンドケーキを食べ終えたのよね。だったら、ここにいる理由はないと思うんだけど。


 パウンドケーキを食べたことで喉が渇いたから、お茶でも飲もうとしているのだろうか。

 だとしたら、お得意の魔術で、とっくに好きな飲み物を取り寄せているはずだ。


――まさか、この部屋の居心地がいいから、帰りたくないとか?


 悪魔の青年が普段どのようなところに住んでいるのか聞いたことはないが、魔界の貴族だというくらいだから、この小屋よりははるかに立派な住まいなのだろう。

 それに、彼が見下している人間が暮らす見すぼらしい小屋が、悪魔にとって居心地いいはずもない。

 だとしたら、ますます彼がここに残っている理由が分からないと、スターチアは首を傾げた。

「あの……」

 戸惑いがちに声を掛けると、ジェンドの眉間のシワが深くなる。

「お前の耳は飾りか? いったい、何度同じことを言われたら、その頭は理解するんだ?」

 素っ気ない物言いだったが、スターチアは怖気づく様子もなく、ふたたび声を掛ける。

「あなたは……、まだ、帰らないの?」

 彼女の問いかけに、ジェンドはフンと鼻を鳴らした。

「お前が寝たら帰るさ。大馬鹿野郎なお前は目を離すと、ロクなことをしないからな」

 ひどい言われようだが、いちいち言い返すほうが馬鹿馬鹿しい。

 スターチアは黙ったまま、ソッと自分の髪に触れる。


――やっぱり、お礼だけは言っておいたほうがいいかしらね。


 品物での礼は今すぐ用意できないが、言葉で告げるだけなら簡単である。

 スターチアはもう一度髪に触れ、口を開く。

「お風呂のお湯を沸かしてくれて、本当に助かったわ。それに、髪が渇くのってけっこう時間がかかるから、それもありがとう」

 スターチアがジェンドに告げると、なぜか彼は鼻の頭にしわを寄せる。

「素直なお前は、どうにも調子が狂う。もしかして、雨に打たれたせいで熱が出たのか? それとも、風呂場で転倒して、頭を打ったのか?」


 それを聞いたスターチアは、ジェンドへの礼の品は、絶対に唐辛子を大量に詰め込んだパンにしようと密かに決めたのだった。






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