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 しばらくして、スターチアは笑いを収めた。

「それじゃあ、あなたの言う通りにお風呂で温まってくるわ」

 すると、その言葉にジェンドがフンと鼻を鳴らす。

「ようやくか。まったく、お前は大馬鹿者である上に、ずいぶんとノロマだな。ほら、さっさと浴室に行け」

 まるで野良犬や野良猫を追い払うかのように、彼は「しっしっ」と言いながら手を振っている。

 そのことに『私は、人間なんだけど』と思うスターチアだったが、言い返したところでどうなるものでもない。

 それに、上位貴族の悪魔にとっては、人間も犬猫も、同じようなものなのだろう。


――まぁ、言い返すだけ無駄よね。


 スターチアは細い肩をヒョイと肩をすくめると、ジェンドに取り合うことなく、その場から静かに立ち去った。




 着替えを持って脱衣所までやってきたスターチアは、今になって気付いたことがある。

「お湯、沸かしてなかったわ」

 ジェンドのように、指や手を軽く動かすだけで魔術を発動させることなどできない彼女は、風呂の湯を沸かすには、専用のかまどに薪をくべるしか方法がなかった。

 それ自体は大した手間ではないものの、風呂釜の湯が適温になるには時間がかかる。

 いくら数時間前に一度沸かしたとはいえ、この時期ではすでに温度がかなり下がっているだろう。

「だからといって、このまま着替えだけ済ませて戻ったら、またあれこれと文句を言われそうよねぇ」

 いや、『言われそう』ではなく、『確実に言われる』はずだ。

 これまでの付き合いで、スターチアなりに漆黒をまとう青年の性格を掴んでいた。

「沸かすしかないわね。たしかに、足が冷えて寝られそうにないわ」

 そう呟いたスターチアだったが、ふと思い直す。

「私がお風呂から上がるまで、あの悪魔が部屋にいるのかしら?」

 もしかしたら、今頃はさっさと出て行ったかもしれない。

 はるかに規格外の悪魔だが、そこまでこちらの身を心配してくれるとは、到底スターチアには思えなかった。


――まさか、ね。


 とはいえ、どうにも気になってしまったスターチアはこっそりと脱衣所を出ると、足音を立てないようにして廊下を進む。

 そして、壁に身を隠すようにして、先ほどまでいた食卓のある部屋をこっそり覗いた。

 次の瞬間、彼女はギョッと目を丸くする。


――なんで、いるの!?


 唖然としているスターチアの視線の先には、椅子にどっかりと腰を掛け、パウンドケーキに齧りついている悪魔の背中があった。

 あまりに驚いてしまったため、彼女は思わずヒュッと息を呑んだ。

 その音に気付いたジェンドは、おもむろに振り返る。

「そこでなにをしているんだ?」

 不機嫌もあらわに問いかけてくる悪魔の青年に、スターチアはぎこちなく、「いえ……、別に……」と小さな声で言い返した。

 そんな彼女に、ジェンドはフンと鼻を鳴らす。

「さっさと湯船で温まれと、何度言われたら分かるんだ。これなら、お前より木製人形のほうが、はるかに聞き分けがいい」

 そう言って、ジェンドはまたしても野良犬や野良猫を追い払いようなしぐさを取る。

「ええと、そのことなんだけど……」

 驚きから立ち直ったスターチアは、湯はこれから沸かすので、ジェンドに反抗してなかなか風呂に入らないのではないと説明した。

 それを聞いたジェンドは、呆れたように片眉を上げる。

「この俺が、考えなしにお前を浴室に行かせると思うか? お前と違って、俺は底なしの馬鹿じゃないんだぞ」

「えっ? それって……、どういうこと?」

 首を傾げる彼女を、ジェンドはギロリと睨む。

「この俺を、誰だと思っている?」

「誰って……」

 どう答えたらいいのか分からないスターチアは、黙ってしまう。

 そんな彼女をさらに睨んで「とにかく、浴室に行け!」と大声で言い捨てたジェンドは、ふたたびパウンドケーキに噛り付いた。




 迫力におされたスターチアは廊下を歩き、脱衣所へと戻ってきた。

 彼女としても風呂で温まりたいのだが、湯が沸いていないことにはどうしようもないのだ。

「あんな言い方をしなくてもいいじゃない。ったく、馬鹿悪魔め」

 ボソリと呟いたスターチアは、ジェンドがいないのといいことに文句を零す。

 だが、スターチアの説明を聞いても彼が浴室へと強引に追い立てたことが、なんだか引っかかる。

「……もしかして」

 彼女は浴室の扉を開けて中に入ると、浴槽の上に掛けてある蓋を外した。


 すると、途端に白い湯気がもくもくと立ち上る。


「お湯が、沸いているわ……」

 彼女は恐る恐る右手を伸ばし、湯船に浸す。

 伝わってきたのは、入浴に適した温度である。

 スターチアが専用のかまどに薪をくべることなく、湯が沸いていた。

 それは、漆黒をまとう青年の魔力によるものだろう。

「私の服や髪を乾かしてくれたし、一瞬で部屋に連れて来てくれたし、その上、お風呂のお湯を沸かしてくれたなんて……」

 唖然とするスターチアは、揺らめく湯気を見ながら改めて口を開く。

「極悪冷血とされる悪魔がそんなことをしたら、そのうち、天変地異が起こるわ」

 ジェンドが聞いたらたちまち不機嫌になりそうなことを、スターチアはポツリと呟いた。


 なんにせよ、湯が沸いているのはありがたい。

 スターチアは脱衣所で手早く衣服を脱ぐと、浴室でザッと髪と体を洗った。

 そして、肩まで湯船に浸かる。

 冷え切っていた手足の先がジンジンと痛みを訴えているが、それも程なくして収まった。

 彼女はゆっくりと息を吐き、体が芯から温まったことを実感する。

「魔力って、本当に便利ね」

 漆黒の青年がどうして今夜はやけに世話焼きなのかを考えることは放棄し、スターチアは魔力のありがたみをしみじみと感じていた。

 王城や山を木端微塵にしたり、泥人形や木製人形を操ることは非常に困るが、こういった魔力の使い方には感謝する。

 まさに、スターチアが子供の頃に願っていた通りのことだ。

「これって、お礼をするべきなの?」

 ジェンドが大口を開けてパウンドケーキに噛り付いていたところを見ると、なかなかに気に入ってくれたのだと分かる。

 ならば、礼の品は手作りのパンやケーキでいいのかもしれない。

「なんでも食べるって言っていたけど、味の好みってあるのかしら」

 感じからして、あの悪魔が質素すぎるパンはあまり好まないというのは、スターチアもなんとなく分かっている。 

 だからといって、砂糖漬けの果物をゴテゴテと乗せたものでは、甘すぎると言われるかもしれないし、スパイスをふんだんに効かせた肉を詰めたパンでは、辛いと言われるかもしれない。

 一応、礼として作る予定だから、食べる本人の希望に沿うべきだろう。

「……でも、なんだか癪に障るのよね」

 ジェンドにさんざん馬鹿だの愚か者だと言われ、大声で怒鳴られたスターチアは、素直にお礼をするのは少々納得いかない。

「なにも教えずに、唐辛子を目いっぱい詰め込んだパンを食べさせてやろうかしら」

 毒さえ無効化する悪魔の青年は、いったいどんな反応を示すだろうか。

 スターチアがクスクスと笑う声は、浴室内で静かに響いた。


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