(53)
見慣れた食卓と椅子、家具や壁に掛けられた小さな絵を見て、スターチアは目を丸くして立ち尽くしている。
――どういうことなの?
今の今まで、たしかに屋根の上にいたはずだと、スターチアは自分自身に語り掛ける。
髪や頬を濡らした雨の冷たさは、はっきりと覚えている。
けして、夢の中での出来事や幻ではなかったはずだ。
ならば、どうして自分は部屋の中にいるのだろうか。
混乱している彼女は、一言も発することができない。
ただただ、肩掛けを握り締めて立ち尽くしているだけだった。
そんなスターチアに、苛立ちも露わな声が背後からかかる。
「おい、ぼさっとするな! 湯を浴びて、布団に入れ! さっさとしろ!」
この状況をいまだに把握できないスターチアは、ゆっくりと振り返った。
そこにはパウンドケーキを小脇に抱え、スッと筋の通った高い鼻の頭にシワを寄せている漆黒の青年が立っている。
とげとげしい空気が自分に向けられているのを分かっていながらも、スターチアはまだボンヤリとしたままだ。
「……あなたが、魔力で私を移動させたの? 大人の女性一人を? たった一瞬で?」
おもむろに尋ねると、ジェンドの眉間にもシワが寄った。
「また、その質問か。俺以外に、誰がいると言うんだ? いい加減、理解しろ」
トゲを含んだ物言いだが、もちろん、スターチアが怯むことはない。
信じられない状況が呑み込めないため、黙り込んでいるだけである。
――この悪魔が私ごと部屋に移動させたのは、ちゃんと理解しているわよ。理解できないのは、『どうして、私をここに移動させたのか』ってことなのに。
パウンドケーキを受け取ったのだから、そのあとはさっさと飛び去ればよかったのだ。
大馬鹿者な人間の娘など、放っておけばよかったのだ。
なのに、この悪魔はわざわざ己の魔力を使って、スターチアを転移させた。
いくら魔力が豊富で、高度魔術でも片手をヒラリと動かすだけで発動させることが可能だとしても、スターチアは彼が蔑んでいる人間である。
わざわざ転移させるだろうか。
――本当に、意味が分からないんだけど。
無言のまま、あれこれと思考を巡らせている彼女の様子に、ジェンドはまたしても不機嫌そうな声を発する。
「お前の耳は飾りか? 俺の言葉が聞こえなかったのか? いつまでそこに突っ立っているつもりなんだ?」
そんな彼に、スターチアは静かに言い返す。
「いえ、聞こえていたわ。私が風邪を引かないかと、心配してくれているのよね」
次の瞬間、ジェンドの両眉がキッと上がった。
「違う! 心配なんか、しているはずがないだろうが! 俺は、お前がいかに愚かなのかと、言っているだけだ!」
たしかに、彼の言葉だけを捉えたら、そう聞こえるだろう。
だが、『湯を浴びろ』、『布団に入れ』というのは、冷えた体を温め、体調を崩す前に横になれと言うことではないだろうか。
つまりそれは、スターチアのことを心配していることに他ならない。
――でも、それは私が勝手にそう思っているだけかもしれないし。
それに、『心配してもらったから、なんだ』という話でもある。
余計なことを言わず、大人しく従ったほうが利口だと判断したスターチアはヒョイと肩をすくめ、「ええ、そうね」と何気ない調子で返したのだった。
ゆっくりと息を吐いたスターチアは肩掛けを外し、椅子の背にかけた。
そして、いまだにこちらを睨んでいるジェンドに視線を向ける。
「ねぇ」
すると、「なんだ?」と、低い声が返ってきた。
「あなたの魔術のおかげで髪も服もしっかり乾いているんだから、そんなに急かさなくてもいいじゃない。あの魔術、本当にすごいことだわ」
ジェンドは呆れ顔で、フンと鼻を鳴らす。
「お前、同じことを何度言わせるつもりだ?」
そんな彼に、スターチアは少し早口で言い返す。
「ええ、分かっているわ。別に、あなたの忠告を無視しようとしているわけではないの。ただ、気になったことがあるから」
「気になったこと、だと?」
スウッと目をすがめるジェンドに、スターチアはコクリと頷いて見せた。
「ええ、そうよ。まったく魔力がない人間の私を連れて転移をするのって、とても難しいことなんじゃない? あと、魔力もたくさん使うわよね」
彼女の言葉を聞いたジェンドは、呆れの色を濃くする。
「それが、なんだと言うんだ? 魔界の上位貴族である俺には、たいしたことではない」
睨み付ける視線の鋭さが増したことを感じたスターチアだが、話を続けた。
「上位って、どのくらい偉い立場なの? 魔王を基準にして、何番目?」
投げかけられた問いかけに、ジェンドは心の底から呆れた。
――この状況で、訊くことか? 本当になにを考えているんだ、この女は。
日中ならともかく、グッと気温が下がる夜だというのに屋根に上り、月を眺めることが日課だという人間の女。
ただでさえ馬鹿な行為だと思っていたが、雨が降っているにも関わらず、屋根の上から動こうともしなかった。
頭の天辺から足の先まで冷たい雨に打たれて体が冷えているだろうに、それでも動かなかった理由が、『パウンドケーキを渡すため』というのだから、ジェンドは本気で呆れた。
とりあえず濡れた髪や服を乾かしてやり、部屋へ転移して『湯を浴びろ!』と怒鳴りつけたが、気になることがあるからといって口にしたのが、『上位って、どのくらい偉い立場なの? 魔王を基準にして、何番目?』である。
これを聞いて心底呆れないほうが無理な話だと、ジェンドは思う。
――ここまで突き抜けた馬鹿は、むしろ才能か?
ジェンドの暇つぶし相手としての才能は、持ち合わせているようだが。
それはともかくとして、スターチアを浴室に向かわせることが優先だとジェンドは判断する。
悪魔である自分はどんなに劣悪な状況でも病気になることはない。極寒の地でも、灼熱の地でも、ジェンドにとってはなんでもないのだ。
だが、目の前にいるスターチアは違う。
本人は健康体で滅多に病気をしないと言っているが、つい先日、熱を出したばかりである。
「今はそんなことを訊いている場合じゃないだろ。いいから、すぐに浴室へ行け。人間は風邪をこじらせただけで、簡単に死ぬだろうが」
すると、スターチアが僅かに苦笑を零す。
「そうは言うけど、意外とこじらせないものなの。体力がない子供やお年寄りは別だけど、私なら大丈夫よ。前に言ったでしょ」
彼女の言葉に、ついジェンドは言い返してしまう。
「いや、折れそうなほど細いお前なら、あっという間にこじらせそうだからな」
それを聞いて、スターチアが告げる。
「別にいいじゃない、私が風邪をこじらせたって」
スターチアは淡々とした口調でポツリと呟く。
早くこの世を去りたいと願っている彼女としては、喜ばしいことだ。
そんな彼女の態度に、ジェンドの眉間に深い縦ジワが刻まれる。
「なによ、その顔。私が病気で死んでも、あなたが困ることなんてないでしょ」
首を傾げるスターチアに、ジェンドがボソッと小声で呟く。
「……ある」
その言葉に、スターチアは改めて首を傾げた。
「なにかしら?」
「…………暇つぶしができなくなる」
返ってきた答えにスターチアは軽く噴き出しつつも、「ああ、そうだったわね」と納得したのだった。




