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 雨粒はけして大きくないものの、シトシトと降る雨は意外と濡れるものだ。

 スターチアは水気を含んだ横髪を耳に掛け、小さく息を吐く。


――さすがに、戻ろうかしら。


 空を見上げると、先ほどよりも雲が多くなっていて、月も星もまったく見えない。

 そして、冷たい雨は止みそうになかった。

 スターチアは肩掛けの中に収めていたパウンドケーキの包みを片手で一撫でして、もう一度小さく息を吐く。


――やっぱり戻ったほうがいいわね。


 いつ現れるか分からない悪魔のため、律儀に待っている必要はない。

 なにしろ、自分とあの漆黒の青年は、なんの繋がりもないのだ。

 一応、顔見知りということにはなるが、人間の自分と悪魔の青年とは、ただ屋根の上で憎まれ口のような会話を交わすだけの関係だと、スターチアは心の中で呟く。

 それに、先日体調を崩したばかりだ。

 ここでぶり返してしまっては、またジェンに余計な心配をかけてしまうだろう。


 スターチアがソロリと腰を上げた瞬間、鋭い声が飛んできた。


「この、大馬鹿野郎!」

 ハッとなった彼女が顔を上げると、漆黒の翼を大きく羽ばたかせてこちらに向かってくる悪魔の姿が目に入った。

 現れるとは思っていなかった彼女は、中腰の状態で唖然となる。

 そんなスターチアのすぐ目の前にやってきたジェンドは、苛立ちもあらわにフンと勢いよく鼻を鳴らした。

「この時期に雨に打たれるなんて、お前はなにを考えている! ついこの前、熱を出したばかりじゃないか! いったい、お前はどこまで馬鹿なんだ!」

 大声で怒鳴りながら、青年はスターチアに向けて右手をかざした。

 すると、彼女の周りを温かいそよ風が取り囲む。

 その風はカラリと乾燥していて、現在、雨が降っていることを微塵も感じさせなかった。


――なに、これ。


 さらに唖然となるスターチアは、無意識のうちに肩掛けの合わせ部分をギュッと握り締める。

 その時、雨に濡れていた指先が完全に乾いていることに気付いた。

 いや、指先だけではない。髪も、顔も、肩掛けも、纏っている服も、なにもかもがすっかり乾いていたのだ。

 ポカンと口が半開きになっているスターチアは、頭の天辺から溶岩を噴き出しそうなほど怒り心頭な青年に視線を向ける。

「……これは、あなたが?」

 すると、漆黒の瞳が鋭い光を帯びた。

「他に誰がいる? お前は底なしの馬鹿だな」

 もう一度フンと鼻を鳴らし、ジェンドは吐き捨てるように言った。

 スターチアはパチリと瞬きをして、静かに口を開く。

「……そうよね」

 魔力溢れる悪魔の青年とって、こういったことは息をするのと同様なのだ。


 疑問なのは、なぜ人間の自分に、わざわざこんな魔術を使ってくれたのかということだ。


 彼が人間たちを虫けらのように見なしていることは、これまでの会話からスターチアなりに理解している。

 また、先ほどのように、この青年はさんざんスターチアを馬鹿者だと罵ってきたのだ。

 ならば、放っておけばいいのではないだろうか。


 首を傾げているスターチアを、青年はこれまで以上にきつく睨み付ける。

「まさか、お前はこの雨を感じ取れないほど鈍感なのか?」

 問いかけられ、彼女は首を横に振った。

「いいえ。いくらなんでも、さすがにそこまで鈍感ではないわ。髪や肩掛けが濡れたことは、ちゃんと分かっていたもの」

 そこで、ジェンドが右足で屋根をダンと音を立てて踏んだ。

「だったら、なぜ、部屋に戻らない?」

「それは……」

 僅かに視線を逸らし、スターチアは言い淀む。


 ここに残っていたのは、別に理由があってのことではない。

 ただ、なんとなくというだけだ。


――自分でも、よく分からないわ……。でも、『なんとなく』と答えたら、この悪魔はもっと怒りそうだし。


 スターチアとしては、ジェンドに怒鳴りつけられたところで、身が縮む思いもしないし、血の気が引く思いもしない。

 とはいえ、怒鳴られるのは、あまり気分がいいものでもない。

 正直に言うべきではないと感じ取っている彼女は、肩掛けの下からパウンドケーキの包みをオズオズと差し出す。

「これを、あなたに渡そうと思って」

 薄紙に包まれた一本のパウンドケーキを見て、ジェンドは苦虫を何匹も、いや何十匹も噛み潰したような苦々しい表情を浮かべた。

 次いで、ガクリと肩を落とす。

「……ここまで馬鹿な人間を俺は初めて見た。お前ほどの馬鹿に出会うことは、おそらくこの先ないだろうよ」

 脱力しきったジェンドの声に、スターチアは「失礼ね」と返した。 




 少しの間、二人の間に沈黙が流れる。

 先に口を開いたのはスターチアだった。

「いらないの?」

 その言葉に、「そんなことは言っていない」と返したジェンドは、ひったくるようにしてパウンドケーキの包みを手に取る。

「お前が馬鹿すぎて、なにも言えないほど呆れていただけだ」

 素っ気ない答えに、スターチアは「そう」と短く返した。


――友人でもなく、お客でもないこの悪魔になにを言われても、別に平気だもの。


 はじめから感謝されるとは考えていないスターチアはいくぶんずり落ちた肩掛けを引き上げた時、これまでと違うことに気付いた。


――雨が、やんでいる?


 スターチアは辺りに視線を巡らせて様子を窺う。

 しかし、彼女から少し離れた屋根では、雨のしずくが落ちるたびに跳ね返っており、小屋の脇に生えている木々の葉は、雨に打たれて揺れていた。

 なのに、スターチアの頬は一滴の雨にさえ打たれることなく、彼女はまったく濡れていなかったのである。


――どういうこと?


 スターチアは注意深く目を凝らし、再度辺りの様子を窺う。

 そこで、自分と青年の周りだけ雨が降っていないことに気付いた。

 彼女が腰を下ろしている辺りだけは、屋根が渇いたままなのだ。

「……えっ?」

 驚いたスターチアは肩掛けの下から右手を出し、おもむろに屋根を撫でた。

 そして、彼女の手は乾いた木の感触を感じ取る。

 改めて驚いたスターチアだが、さらに驚くことになる。


 ハッと息を呑んだ瞬間、彼女は部屋の中にいたのだった。


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