(4)
陽があるうちに家へ帰ったスターチアは、夕飯の支度をする前に、裏手の小山に上って木の実を採取することにした。
本気で木の実を集める時は服装も靴もそれに合ったものに変えていたのだが、今はなにかいい木の実は見つかったら取ることにしようという程度の軽い気持ちだったのである。
それが、災いした。
三種類ほどの木の実をエプロンのポケットいっぱいに詰め込んだ彼女は、大きな岩を迂回して降りようと進んだところ、落ち葉が吹き溜まっていたことに気付かず、うっかり足を滑らせてしまったのだ。
動きやすい服装と踏ん張りの利くゴム底の靴であれば、どうにか踏み留まることができただろう。
しかし彼女は足首まで裾があるワンピースと、歩きやすいけれどそこまで踏ん張りがきかない靴という出で立ちだったため、簡単に足を滑らせてしまった。
高くない山とはいえ、このまま斜面を転げ落ちたら、最悪の場合は腕か足の骨を折るだろう。
よくても、体の半分近くが擦過傷で覆われることになる。
間もなく訪れる痛みに耐えるため、スターチアは体を縮めてきつく目を閉じた。
その瞬間、不思議なことが起こる。山の裾野から、突然強い風が吹き上げてきたのだ。
華奢な彼女は簡単に煽られてしまったが、かえって体勢を立て直すことができた。
前につんのめっていた体が反対に後ろへと傾ぎ、その場にトスンと尻もちを着く。
「……え?」
自分の身に起きた状況を、スターチアはすぐには理解できなかった。
徐々に赤く染まりつつある空にはゆったりと雲が流れていて、とても強い風が吹いているようには思えない。
ここが谷間であるなら、吹き抜ける風が勢いを増すのも理解できる。
しかしスターチアがいる場所は丘より少し高い程度の山であり、まして、周囲は比較的平らな土地ばかりだ。
だが、自然に発生した風にしては、おかしな点が多すぎる。さらに言えば、あれほど都合よく風が吹くものだろうか。
とはいえ、あのように激しい突風を人力で起こすことは不可能である。
「……なにが、起きたの?」
心底不思議そうな彼女の声が、静かに響いた。
被害はワンピースを汚してしまったくらいで、大事に至らなかった。スターチアは、しきりに首を傾げながらソロリソロリと残りの山道を降りていく。
無事、裾野に立った彼女が背後の山を振り返るが、あれ以降はそよ風すら吹いてこなかった。
本当に、あの風はなんだったのだろうか。
いや、風には正体も理由もあるはずない。
たとえ、彼女の身を守ってくれたとしても。
「世の中には、不思議なこともあるものね」
ポツリと呟いたスターチアは傷一つついていない自分の手足を見て、小さな苦笑を浮かべたのだった。
小屋に着いたスターチアは、まず汚れた服を洗い桶に入れて丁寧に手で洗い始める。
魔術師たちが世界のいたるところに存在していた時代、指先を軽く動かすだけで洗剤と水を入れた洗い桶の中では服が踊るように動き、完璧に汚れを落としたという。
そのようなおとぎ話を祖母から聞かされた幼き日のスターチアは、『私にもできるかもしれない』と意気込み、洗い桶の前に立って一生懸命に小さな指を振ったものだ。
すっかり信じ込んで片っ端から家族の服をかき集めて洗い桶に突っ込んだものだから、彼女の祖母も母親も怒りたいやら呆れるやら笑いたいやら。
なんとも言えない表情で子供のスターチアを眺めていた二人の顔は、今でも忘れられない思い出の一つである。
「魔力があったら、ずいぶんと便利でしょうね」
洗濯もそうだが、簡単に大量のパンが焼けるかもしれない。鶏の卵集めも、畑の野菜収穫も、指一本動かすだけで終了だ。
そんな感じで魔力を操る生活を思い描いているうちに、彼女の脳裏には懐かしい顔が次々に浮かび始めた。
この身に魔術師と呼ばれるほどの魔力があったなら、祖父母の病を治すことができただろうか。
両親と弟たちを、危険から遠ざけることができただろうか。
恋人の青年を、荒れ狂う川の流れから救い出すことができただろうか。
大事な親友を、通り魔のいない場所に導くことができただろうか。
自分の生活が楽になることなど、正直、どうだっていい。大事な人たちを失わずに済む力があったらよかったと、スターチアは悔し気に唇を噛む。
その後は無言でワンピースを洗い、すっかり汚れが落ちたことを確認した彼女は深く息を吐いた。
「……もう、そのことは考えないようにしようって決めたのに」
自分が魔術師ではないことは、嫌というほど分かっている。
どんなに願ったところで、魔力は欠片ほども身に付かないことも。
魔術師になるには、生まれ持った才能が必要であることも。
失った彼らが戻らないことも、十分すぎるほど分かっている。
それでも彼女の心の奥にある傷が時折パックリと口を開け、ジクジクと滲む血と共に痛みを訴えるのだ。
マールをはじめとする町の人たちがどんなに親切にしてくれても、この傷は簡単に癒えるものではない。
スターチアは濡れたワンピースを片手に立ち上がると、深く長く息を吐いた。
「あと何年、痛みを我慢すればいいのかしらね」
何年経ったら、平穏な心を取り戻せるのだろう。
何年経ったら、彼らの死を受け入れられるのだろう。
六年経った今までも残る心の傷は、いったい、どれほどの時が経てば癒えるのだろう。
考えないようにしようと決めたところで、結局、彼らを思って胸を痛めるスターチアだった。
洗濯後に湯あみと夕食を済ませた彼女は、辺りがすっかり暗くなった頃、鳥小屋とは反対の家壁に向かった。
そこには木でできた梯子が立てかけてあり、これを使って彼女は毎晩屋根に上っているのだ。
靴を揃えて脱ぎ、所々がほつれたワンピースの上から羽織っている肩掛けの胸元を左手でしっかり握りしめると、スターチアは右手を梯子にかけてゆっくりと昇っていく。
この時期になると裸足では寒いのだが、靴を履いている時よりも断然滑りにくいのである。
スターチアは今夜も無事に丸太小屋の屋根に辿り着き、馴染みの場所に腰を落とした。
昨日よりほんの少しだけ太くなった月を見上げ、彼女は特に意味もなく長々と息を吐く。
その時、どこかから羽ばたきの音が聞えた気がした。
不思議に思ったスターチアは月から視線を外し、ゆっくりと辺りを窺う。
こんな夜更けに空を飛ぶのは、梟か、それとも蝙蝠か。
「ああ、昨日は悪魔が飛んで来たわね」
クスリと小さな笑みを零したところで、突然、束ねていない髪が横風に煽られた。
それと同時に、不機嫌が丸わかりの美声が耳に届く。
「この俺様を、梟や蝙蝠と一緒にするな」
彼女の目の前に現れた漆黒の青年は、腹いせとばかりに背中にある翼を大きく動かした。
ブワリと強い風が吹いたため、スターチアは肩掛けをしっかりと握り締める。
風が強すぎたせいで細身の彼女は後ろに倒れかかったが、がっしりとした煙突を背にしていたため、屋根から転げ落ちることはなかった。
実際には僅かに体勢を崩した程度で、落ちるほどの強風ではなかったが。
それでも大抵の者ならヒヤリと肝を冷やしたはずなのに、スターチアは怒るどころか不機嫌になることもない。
月を背後にして宙に浮く青年を、感慨もなく眺めているだけだった。
「あら? あなたは、夕べの悪魔ね。こんばんは」
感情の起伏が見えない彼女の挨拶に、ジェンドは盛大に眉根を寄せる。
「お前は、どうしてそんなにも平然としていられるんだ?」
怒りと嘲りが滲む声を浴びても、スターチアの表情に変化はなかった。
「どうして、あなたが怒るの?」
パチリと一度だけ瞬きをした彼女の様子に、ジェンドはさらに苛立ちを募らせる。
「お前があまりにも間抜けだからだ。人間は命が一つしかないんだろ。だったら、その命を大事に抱えていろ」
スターチアは自分が怒られている理由が分からず、もう一度瞬きをした。
しばらく経ってから、ようやく青年悪魔の言葉を理解する。
つまり、一歩間違ったら命を落としかねない状況だったにもかかわらず、スターチアが驚きもしないことに腹を立てていたのだ。
それにしても、なぜ、彼は腹を立てているのか。それは、理解できなかった。
ボンヤリとジェンドを見上げながら、スターチアは誰に聞かせるわけでもなく呟く。
「……だって、私には命を大事に抱える理由がないんですもの」
「今、なんと言った?」
あまりに小さい声だったせいで、目の前にいるジェンドにも届かなかったらしい。
とはいえ、改めて聞かせることでもないため、スターチアはぺこりと頭を下げて、「ごめんなさい、気を付けるわ」と、何気ない調子で告げた。