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笑いを収めたスターチアが、ジェンドに向けて静かに告げる。
「そうね。胚芽パンなら常備しているから、いつでも食べさせてあげるわ」
すると、彼がギロリと睨んできた。
「それ以外のパンは、俺に食わせないつもりか?」
悪魔が人間の食べ物を口にするというのは、今しがた知ったばかりである。
また、彼と顔を合わせるのは寝る前のひと時だけなのであり、その上、会話と言っても憎まれ口の応酬に近いところもあり、相手の好みを理解するようなものではなかった。
――私が知っていることと言ったら、いつも暇つぶしを探しているということくらいだわ。
そんなものでは、彼の好みを探る手掛かりにすらならない。
だとしたら、直接教えてもらったほうが早いと、スターチアは考えた。
「いいえ、そういうつもりはないのよ。ちなみに、どういったパンが食べたいの? 果物やクリームが入った菓子パン? それとも、味付きの肉や腸詰め肉を包んだ総菜パンがいいかしら?」
彼が答えやすいようにと、スターチアはいくつか例を挙げる。
そして、漆黒の青年が口にしたのは。
「……パウンドケーキ」
という答えだった。
ただし、その声があまりにも小さく、スターチアには聞き取れなかったのである。
「え? ごめんなさい、聞こえなかったわ。もう一度、言ってもらえる?」
目の前に浮いている青年を見上げて声をかけると、今度は鼓膜を震わせるほどの大きな声が返ってきた。
「パウンドケーキ! 干した果物を刻んで混ぜ込んだパウンドケーキだ!」
奇しくも、悪魔の青年からの要望は、馬車で家まで送り届けてくれたジェンに押し付けるようにして渡したものと同じものだった。
その時のやり取りを思い出したスターチアは、フッと小さな笑みを浮かべる。
それに対し、青年の眉がグッと中央に寄った。
「なんだよ、俺には食わせないつもりか? 人間のくせに、生意気な奴だ」
再度ギロリと睨まれるが、スターチアは苦笑を零すだけである。
「違うわ」
横髪をサラリと耳に掛け、彼女は話を続ける。
「夕方、ある人にパウンドケーキを渡したのよ。あなたと同じくらいの年齢で、あっ、もちろん実年齢じゃなくて見た目ってことよ。それでその人は……、たぶん貴族だと思うんだけど、私なんかが作ったパウンドケーキを嬉しそうに受け取ってくれたのよ。それを思い出しただけ」
貴族であるかどうかはスターチアの予想でしかなく、ジェンの言葉使いがどこか庶民に近い時もあるものの、明らかに身なりは上品であり、上流階級の暮らしをしていることは間違いないだろう。
――あんなに立派な馬車は、子爵や男爵でも用意できないのではないかしら。では、ジェンさんの身分は伯爵以上?
そう考えると、押し付けてしまったパウンドケーキは、やはり彼にとって迷惑な代物だったのではないだろうか。
スターチアは視線を伏せ、ポツリと呟く。
「……あの人、本当に喜んでくれたのかしら? 最後は強引に押し付けた形になったから、本当は迷惑だったかもしれないと思えてきたわ。私の行動って、世間知らずの子供みたいだったわね」
静かに息を吐き、スターチアはヒョイと肩をすくめた。
「ああ、ごめんなさい。これは私の独り言だから、気にしないで」
「別に、気にしてないが」
ジェンドは体の前で腕を組み、フンと鼻を鳴らす。
「ええ、そうね。愚かな小娘の私のことなど、気にするようなあなたじゃないわね」
彼女の言葉に対し、一瞬ジェンドはなにか言いたそうな素振りを見せたが、結局彼は口を開かなかった。
二人の間に、ゆったりと沈黙が流れる。
少ししてから、スターチアがユルリと首を横に振った。
「あの人に、庶民の味は口に合わないかも」
一応は受け取ってくれたものの、こっそり捨てられてもおかしくはない。
よくて一口だけ食べ、残りはゴミ箱行きではないだろうか。
そんなことを、スターチアはボンヤリと考える。
ジェンはとても穏やかで、優しい人ではあるけれど、貴族と庶民の間には、城壁よりも高い壁がそびえたっているものだ。
こちらの勝手で無理に押し付けてしまったたジェンに対しても、押し付けたせいで捨てられたかもしれないパウンドケーキに対しても、スターチアは申し訳ない気分でいっぱいになる。
――余計なお世話って、思われていたりして。
苦々しい笑みを浮かべる彼女に向かって、ブワッと風が吹いた。
その風が一瞬で止んだため、悪魔の青年の仕業だと分かる。
乱れた髪を直しながら、スターチアは首を傾げた。
「急になんなの?」
問いかける彼女に対し、ジェンドはまたしてもフンと鼻を鳴らす。
「愚かなお前は忘れているようだが、この俺も魔界においてはれっきとした貴族だ。しかも上位のな。
その俺が、お前のパンを悪くないと褒めてやったんだ。パウンドケーキを受け取った男だって、喜んで食っただだろうよ。見た目によらず、甘党だしな」
彼の言葉に、スターチアはいくつか引っ掛かりを覚えた。
――「悪くない」って、やっぱり誉め言葉だったのね。
捻くれた思考回路を持っているのが、悪魔である。
誉め言葉がスターチアの思うものと違うのは、当然なのだろう。
次に気になったのは、スターチアが話していないことを悪魔の青年が知っていたことだ。
「ねぇ……」
彼女の呼びかけに、ジェンドが「なんだ?」と素っ気なく答える。
「どうして、男性だって分かったの?」
スターチアは『ある人』、『あの人』という言い方しかしていない。性別を予想させる言葉は、はっきりと口にした覚えがなかった。
また、なぜジェンが甘党だと知っているのだろうか。
それこそ、好みについてはまったく話していないし、実のところ、スターチアでさえもジェンがどういった味を好むかは知らないのである。
それなのに、目の前で宙に浮いている青年は断言したのだ。
心底不思議そうにしている彼女を見て、漆黒をまとう青年の美貌に苦虫を噛み潰したような表情が浮かぶ。
「……俺は、なんでもお見通しだからな」
その答えに、スターチアはフッと頬を緩める。
人智を超えた魔力を持つこの青年なら、なにもかも見てきたかのように察することが可能なのかもしれない。
――ああ、そうね。今、私が会話している相手は、悪魔だったわね。
スターチアは深く疑問に思うことなく、「さすがだわ」と一言返したのだった。




