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 凝り固まっていたスターチアの心がいくぶん崩れたことで、彼女の表情にはいつもの穏やかさが戻ってきた。

 彼女は横髪をサラリと片手で耳に掛け、話を続ける。

「この辺りはそれほどまでルーオ教の信仰が厚くないし、王都周辺は移民が多いから、髪や瞳の色が濃い人も珍しくないわ。おかげで、周りの目を気にせずに過ごしていられるの。思い切って村を出てよかったわ」

 そこで、スターチアが小さく笑う。

「パンを作ることで、どうにか生活費を稼ぐこともできるもの。なにもかもが幸せとはいかないけれど、それでも、私は運がいいほうね」

 それは、心の底から感じていることだった。

 大人たちの冷たい目や子供たちの怯えた目がつらくて村を出たものの、スターチアには暮らしていけるための確固たる算段が付いていたわけではない。

 祖父に仕込まれたパン作りの腕が実際に通用するのかどうかは、当時は未知数だったのである。

 密かに微笑みを浮かべているスターチアに、鼻の頭のシワを解いた悪魔の青年が話しかけてきた。

「聞くところによると、お前が作るパンは意外と評判がいいんだってな」

 彼の言葉が、スターチアにはなんだか不思議なものに感じた。


――どうして、知っているの?


 確かに彼女が作るパンは、マールたち町の住人に好評であり、またアディスのおかげで、軍内部にもスターチアが作るパンのとりこになっている者もいるという話だ。

 しかし、悪魔の青年が言うところの『矮小な人間の小娘』であるスターチアが、周りからどんな評価を得ていようが、彼には関係ないはずである。


――暇つぶしに、情報収集でもしているのかしら?


 二言目には「暇つぶしだ」と口にするのだから、ありえない話ではない。

 それに、スターチアにとっては、彼にどんな思惑があろうとも無関係であり、追究する必要性は感じなかった。

 スターチアは苦笑を深める。

「意外とって、失礼ね。まぁ、自慢できるほどの腕前ではないと思うけど、おかげさまで細々と暮らしていけるくらいは稼げるわ」

 すると、ジェンドはさらに意外なことを口にした。


「なら、そのパンを食ってやろう」


 その言葉に、スターチアは目を丸くする。


――今、食べるって言った? 私が作ったパンを?


 意外過ぎる言葉に、戸惑いを隠せない。

 そんな彼女に、青年の形のいい眉が片方だけヒョイと上がる。

「どうした? 一つくらい、余っているだろ」

 どうやら本当に食べるつもりだと分かり、スターチアはぎこちなく口を開いた。

「え……、ええ、日持ちがするパンは、非常食としていくつか用意してあるわ。でも、あなたって正真正銘の悪魔でしょう? 人間の食べ物を口にして、体に害は出ない?」

 動揺するあまり、彼女は妙な質問をしてしまう。

 そんなスターチアにジェンドはふたたび片眉を上げたのちに、軽く噴き出した。

「さすが、おかしな女だ。悪魔相手に、そんな心配をするとは」

 彼は肩を小刻みに揺らして笑っている。

 スターチアは見当違いなことを言ってしまったことに、恥ずかしさを覚えた。

「だ、だって、悪魔がどういうものか、よく知らないんだもの。ほら、人間が大丈夫でも、犬や猫には危険な食べ物ってあるし」

 スターチアは以前、葱やチョコレートを食べると、犬や猫が命を落としかねないという話を聞いたことがあった。

 それを思い出してのことだったが、ジェンドは笑いを収めて、盛大に不機嫌な表情を浮かべる。

「この俺を犬や猫と同様に扱うとは、いい度胸だな」

 凄みのある声で言われ、スターチアの細い肩がピクリと震えた。

「ご、ごめんなさい……、悪気があったわけじゃなくて……。ええと、なんと言うか……」

 焦ってしどろもどろになっている彼女の様子に、漆黒の青年がふたたび噴き出す。

「さすが、俺が認めたおかしな女だな」

 どうやら、先ほどの彼女の発言に対し、本気で怒ったわけではなかったらしい。

 そんな彼を見て、スターチアはホッと息を吐く。

「じゃあ、人間の食べ物を食べても、本当に平気なのね?」

「当然だ。どうといったことにもならない。なにしろ俺の体は、毒だって無効化するからな」

 自信たっぷりに言い放つ彼に、スターチアは目を丸くする。

「毒を無効化!? そんなの、考えられないわ!」

 人の体内に毒が取り込まれてしまうと、平気ではいられない。

 軽い症状だと、頭痛や吐き気、腹痛、倦怠感に襲われる。

 重い症状では、意識が戻らなかったり、最悪の場合は死に至るのだ。


――こんなにも、人間と悪魔は違うのね。本当に不思議だわ。


 驚きを隠せない彼女を見て、ジェンドは満足そうに口角を上げた。

「すべての悪魔が、そうとは限らないがな。豊富な魔力を持ち、高貴な悪魔である俺だからこそ、毒の無効化は可能だ」

「へぇ、そうなのねえ……」

 感嘆の声を漏らすスターチアに、ジェンドは『心底、変わった女だ』と心の中で呟く。


――コイツは、基本的に悪魔を恐れないな。


 自分が知っている人間とは違う反応を示すからこそ、暇つぶしに最適な駒なのだ。

 それ以外の意味はないと、ジェンドは無意識のうちに自分へと言い聞かせていた。

 一方、スターチアはすっかり悪魔の体に興味津々である。その表情は、夢中で漆黒の翼に触れていた時と同じだった。

「ところで、悪魔ってお腹が空くのかしら?」

 この青年相手に遠慮をするつもりはないスターチアは、気になったことを問いかけてみた。

 ジェンドは特に表情を変えることなく、静かに口を開く。 

「魔力が満たされていると、空腹は感じないな」

「今は?」

「魔力を大量に使うことをしていないから、存分に満たされているぞ。試しに、あの山を魔力で吹き飛ばしてやろうか」

 ニヤリと片頬を上げる青年に、スターチアはブルブルと首を横に振る。

「それはやめてちょうだい! 間違いなく大騒ぎになるわ!」

「冗談だ、本気にするな」

 からかわれたことに気付いて、スターチアは青年をチロリと睨む。

 彼女の視線を受けても、ジェンドは飄々としたままだ。

「それで、俺に食わせるパンはあるのか?」

「でも、お腹は空いてないんでしょ?」

 その言葉に、今度は青年の漆黒の瞳が彼女をチロリと睨む。

「暇つぶしだ。いいから、寄越せ。取りに行く時間くらい、待ってやる」


――パンをもらう側なのに、なんて偉そうなのかしらね。


 少しだけ、彼女の中に反抗的な気持ちが湧き上がる。

 さきほどからかわれた仕返しに、スターチアはツンと顎を反らして言い返す。

「私が手間暇かけて作ったパンを、暇つぶしの道具にしないで」

 そんな彼女の返事に、ジェンドはスッと目を細めた。

「ほう、ずいぶんと生意気なことを。取りに行かないというなら、それでもいい。魔力を使って、お前の家にあるすべてのものをここに引き寄せてやる」

 ふたたびスターチアの目が驚愕に丸くなる。

 山を吹き飛ばされるよりは大ごとにならないものの、彼女にとってはかなり厄介なことになる。

「や、やめて! パンなら、ここにあるわ!」

 遅めの夕飯として持ってきたパンだが、空腹は感じていない。

 今度は冗談ではないかもしれないと慌てるスターチアは、薄紙に包んだパンを差し出した。




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