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スターチアは震える唇をソッと引き結ぶ。
注意深く見ないと分からないほどだが、僅かに下がった眉尻は泣きたいことを我慢しているようにも感じられる。
二人の間に、しばし沈黙が流れた。
今夜は珍しいことに、夜風がまったく吹かない。
そのため、魔術がかけられた肩掛けだけで、スターチアの細い体がある程度のぬくもりを保っている。
しかし、彼女の唇の震えがなかなか止まらない。
寒さが原因ではないので、それもそうだろう。
ジェンドは承知していたものの、スターチアの視界に入らない位置で静かに指を動かし、彼女の周りに温かい空気で壁を作った。
――別に、コイツを心配しているわけではないし、慰めているわけでもない。下手に風邪をこじらせたら、暇つぶしの相手がいなくなるからな。
彼は心の中で呟き、これまで同様に無言を貫いていた。
沈黙が続く中、スターチアは周りの空気がほんのりと温かくなったことに気付く。
――これは……って、考えるまでもないわよね。
日差しがまったくなくなった夜である今、いきなり温度が上がることは、自然界においてありえない。
間違いなく、目の前にいる悪魔の青年によるものだろう。
「……ありがと」
スターチアはポツリと礼を述べた。
――どうせ気まぐれでしょうけど、お礼を言っておかないと面倒だもの。
素直な気持ちで礼は言えないものの、ありがたいことには変わりない。
今夜のスターチアは、胸の奥に閊えているものを吐き出したい気分だった。
だから、寒さに負けて話を中断したくなかったし、馬車で送ってくれたのジェンの親切心を仇で返さないために、悪魔の気まぐれでもありがたかったのである。
そんな彼女の反応に、漆黒をまとった青年は自身の前髪を長い指で掻き上げた。
「礼は不要だ。この程度、息をするのと同じくらい造作もないことだからな。それより、さっさと続きを話せ」
偉そうに告げる彼に、スターチアはソッと首を傾げる。
「私の話、退屈じゃないの?」
すると、青年の眉が片方だけヒョイと上がった。
「暇つぶしにはちょうどいい」
予想通りの返答に、スターチアはほんの少しだけ笑ってしまう。
「ええ、そうね。こんな話でも、あなたの暇つぶしにはなるわね」
彼女は僅かにずり落ちた肩掛けを静かに引き上げ、ゆっくりと息を吐く。
そして、ふたたび話し始めた。
「一部の村人から口さがなく言われる私のことを、二つ上の幼馴染がいつも庇ってくれていたのよ。優しくて、正義感に溢れた人で、彼は私の恋人でもあったの。陰で悪く言われても、彼がいるから私は耐えられたわ」
スターチアは、恋人の姿を脳裏に描いた。
争いごとを好まない穏やかな性格は、彼の表情にも表れていた。
そんな彼が腹を立てるのは、スターチアが村人たちから理不尽な陰口を叩かれた時だった。
彼の気持ちは嬉しかったが、同時に申し訳ないとも感じていた。
彼が自分を庇うほど、周囲からは『悪魔に惑わされている』と囁かれていたことをスターチアは知っていたのだ。
彼のことが本気で好きだったからこそ、スターチアは別れを切り出した。それも、一度ではなく、何度も。
そのたびに彼は春の日差しのような穏やかな笑みを浮かべ、『スターチアは悪魔じゃない。俺は分かっている』と、彼女の手を強く握り締めていた。
今も、スターチアは彼の笑顔をはっきりと覚えている。
ただ、大好きな人の笑顔は、彼女の心を切なく締め付けるものでもあった。
改めて深く息を吐き、スターチアは口を開く。
「それなのに、世の中って残酷ね。そんなにいい人が、急な川の増水に巻き込まれて、命を落としてしまったの。当時、神様を恨んだわ」
家族を亡くし、村人たちから冷たい目で見られていたスターチアを支えれくれた彼の命を奪う神など信じるものかと、彼女は本気で恨んでいた。
しかしながら、教会に出向かなくなると、それこそ悪魔だと罵られそうだったため、スターチアは砂を噛むような思いで、週に一度、教会で拝礼していたのだった。
やがてスターチアの脳裏に浮かんでいた恋人の顔が消え、今度は親友の顔が浮かび上がる。
恋人同様、その親友もターチアを庇ってくれていた。
「彼が亡くなったのと同じ頃に、親友も亡くなったの。野生の熊に襲われたのよ。あの場所で熊が出るなんて、それまで一度もなかったのに……」
親友の死に目には会わせてもらえなかった。鋭い爪や牙で引き裂かれた体は、年若いスターチアに見せるには、あまりにもひどい状態だったのだ。
そのため、埋葬される親友に手向けの花を贈ることができなかったのは、今でもスターチアの心残りでもあった。
そこで、スターチアは目を閉じる。
「……どうせなら、私の命を奪えばよかったのにね。村人たちに疎まれていた私なら、悲しむ人がいなかったのに」
彼の家族も、親友の家族も、突然の不幸に見舞われ、それはひどい落ち込みようだった。
村中に、重たくて暗い空気が漂ったのは無理もないことだろう。
その空気が、意味合いを変えるまでに、そう時間はかからなかった。
スターチアはゆっくりと目を開け、話を続ける。
「それからは、私に向ける村の人たちの視線がさらに冷たくなったわ。私が悪魔だから、不幸を呼び寄せたって……。魔力がなくても、この瞳の色が悪魔である証拠だって……。大人たちの言葉を聞いて、子供たちは本気で怯えていたわ。そんな姿を見たら、もうここにはいられないと思ったの。だから、私のことを誰も知らない場所に移り住むために、私は村を出てきたのよ」
彼女の話を聞いていたジェンドは、心底くだらないと思っていた。
だが、それは悪魔がどういうものかを知っている彼だからこそ、そう思えるのだ。
物語の中でしか悪魔を知らない辺境で暮らす者たちは、そのような反応を示すのもしかたがない
――いつまで経っても、人間たちの見方は変わらないんだな。自分たちが勝手に創り上げた『悪魔』を恐れるなど、本当に馬鹿馬鹿しい。
苦々しい表情を浮かべている漆黒の青年の様子に気付くことなく、スターチアはさらに話を続けた。
「やっぱり、この黒い瞳は悪魔の証なのかしらね。だから、大事な人たちが次々と命を失ったんだわ。悪魔の私がそばにいたから……」
そんなはずはないことは、彼女自身がよく分かっている。
それでも、思わず言葉に出てしまうのは、やはりスターチアの心が擦り減っていたからだった。
彼女は肩掛けを首元まで引っ張り上げ、合わせ目をグッと握り締める。次いで、力なく俯いた彼女は、膝に顔を埋めた。
ジェンドには、そのしぐさが謂れのない悪言から身を守っているかのように見えた。
細く小さな体には目に見えない無数の針が突き刺さり、その痛みを必死に耐えているように見えたのだ。
そんな彼女の様子に、冷酷であるはずのジェンドの心が、初めてスターチアと会った日の夜と同じように切なく締め付けられる。
気付いた時には、怒鳴っていた。
「ふざけるな! 目が黒いだけで、悪魔であるはずがないと言っただろうが! 身近な者たちが命を失ったのは、ただの偶然だ。ただの人間ごときが悪魔の力を宿せるなどと驕るのは、身の程知らずというものだ!」
あまりにも大きな声だったため、スターチアは思わず顔を上げる。
その言葉は彼女をあざけるものだった。明らかに馬鹿にしていた。
それでも、スターチアは言葉の裏にひっそりと隠れた優しさを感じたのだ。
――悪魔自身が、私を悪魔じゃないって認めてくれたってことよね。
慰められたように思えたのは勘違いかもしれないが、長年凝り固まってしまった心が、彼の言葉でホロホロと崩れ始めたのは事実だ。
「ありがとう」
スターチアがお礼を告げると、ジェンドは鼻の頭に皺を寄せて険しい顔付きになる。
「馬鹿にされて礼を言うとは。やはり、お前は変な女だな」
「ええ、そうね。でも、ありがとう」
またしても礼を告げたスターチアに、ジェンドはますます鼻の頭に皺を寄せたのだった。