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 馬車が遠ざかるのを少しの間眺めていたスターチアは、急ぎ足で小屋へと入っていった。

「今日は思いがけない体験をしてしまったわ」

 生まれて初めて豪華な馬車に乗ったせいで、珍しくスターチアの気分が高揚している。

 おかげで体調が回復したようにも感じるが、ジェンが言ったように油断は禁物だ。

「私のことを心配してわざわざ馬車で送ってくれたのに、ここで悪化したら、あまりにも申し訳ないわ」

 彼女はクスッと笑って洗面所に向かい、手をよく洗って、いつもより念入りにうがいをした。

 朝に作ったスープが残っていたので、温め直して卵を落とし、少し日が経って硬くなったパンも入れる。

 遅めの昼食を取り、風邪に効くとされている薬草茶を飲んだ。

 腹の中からポカポカしてきたのを感じながらスターチアは軽く湯あみを済ませると、寝台で横になった。


――このまま大人しくしていたら、すぐによくなるわ。


 体が弱っている時、薬はもちろん、同じくらい休息も大事だ。

 また、心が弱っている時も、やはり休息が必要となる。


――このところ色々とあったから、きっと気付かないうちに疲れが溜まっていたのよ。


 慰安際に出店したあの日は、とにかく目まぐるしかった。

 以降、新規の客が増え、仕込むパンの量も増えた。

 それからほどなくして、あの異臭事件が起きた。

 姿が見えない犯人に戸惑い、客足が遠のいていったことに不安を覚えた日々は、いつの間にかスターチアを追い込んでいたのだろう。


――少しは休みなさいって、神様が言ってくれているのかしらね? それとも、心配症のおばあちゃんかしら?


 そんなことを考えているうちに、スターチアはうとうとし始めた。




 ふと目を覚ました時には、寝室内がだいぶ暗くなっていた。

 寝台の上に身を起こしたスターチアは、窓の外に視線を向ける。

 窓からは、天に浮かぶ月が見えた。

 枕元に置いてあるぜんまい仕掛けの時計を見て、彼女は少し驚く。

「もう、こんな時間? ここまで、寝るつもりはなかったんだけど……。やっぱり、疲れが溜まっていたということなのね」

 苦笑を零したスターチアはスルリと寝台を抜け出し、近くの椅子に置いてある肩掛けを羽織る。

 ほんの少しだけ喉の痛みを感じるものの、だいぶよくなっていた。倦怠感も熱っぽさも、ほとんどない。

 夕食を食べはぐった彼女は、常備している簡素な胚芽パンを薄布で包む。月を見ながら食べれば、この味気ないパンも美味しく感じるかもしれない。

 本来は肉料理や魚料理と合わせて食べるパンなのだが、スターチアには今から料理をする気力はなかった。

 と、いうよりも、日頃から食には一切こだわらない彼女は――売り物のパンにはこだわるが――、とりあえず腹が膨れたらそれでいいという考えである。

 そして、いつものように小屋の裏手に立てかけてあるはしごへと向かう。

 体調が完全に回復していない日には屋根に上ることをやめるべきなのかもしれないが、彼女にとって、月を見上げないことには一日が終わらないのだった。




 幸いなことに、今夜の冷え込みは弱かった。

 スターチアはいつもの場所で、いつものように月を見上げている。

 そんな彼女の耳に、バサリ、バサリという羽ばたきの音が聞えてきた。

 彼女が音の方向に顔を向けようとした瞬間、「馬鹿野郎!」という怒鳴り声が辺りに響く。

 苛立ちを露わにした漆黒の青年がスターチアの正面にやってきて、宙に浮いたまま体の前で腕を組んで彼女を見下ろした。

「風邪を引いているくせに、なんでここにいるんだ! この、大馬鹿者が!」

 その言葉に、スターチアは首を傾ける。

 体調が悪いことは彼女の顔に書かれていないし、そのように書いた旗を掲げているわけでもない。

 それに、朝のうちならともかく、今はほぼ回復しているのだ。

 パッと見ただけで、本人以外が分かるはずもない。

「どうして、私が風邪だって知っているの?」

 投げかけられた問いに、なぜか青年は言葉を詰まらせる。

「そ、それは……」

「それは?」

 オウム返しするスターチアに、彼がぶっきらぼうに言い放つ。

「悪魔の俺は、なんだってお見通しなんだ!」

 それを聞いてスターチアは一瞬眉根を寄せるが、相手は単なる人間ではない。こちらの感覚を飛び越えた存在である。

「そう。あなたなら、それもあり得るわね」

 特に追究することなく――追究すると、なにかと面倒だからということもあったが――、彼女はあっさりと納得した。

「そうだ。なにしろ、俺は悪魔だからな」

 ふん、と鼻を鳴らし、漆黒の青年がふんぞり返る。

 理由になっていないような返事だが、彼が人智を越えた魔力持ちの存在であることは理解しているので、スターチアは「そういうものよね」と気に留めなかった。

「たった今顔を合わせた私の体調を見抜くなんて、あなたって占術師みたい」

 なにげなく感想を述べただけなのだが、青年はグッと眉根を寄せる。

「あんな子供だましの術しか使えないやつらと、この俺を一緒にするな。不愉快だ」

 彼はさっき以上に鼻を鳴らし、不機嫌であることを思い切り顔に出す。

 そんな青年に、スターチアは「ごめんなさい」と謝罪を口にした。

「これっぽっちも悪気はなかったのよ。魔力をまったく持たない私からすると、子供だましの術であっても、十分に驚くべきものなの」

 そこでスターチアは、自嘲気味な笑みを浮かべた。

「私の目はあなたと同じく真っ黒なのに、どうして魔術を使えないのかしら」


 もし自分に魔術が使えたら、大事な人を助けられたかもしれないという思いが、胸の奥にこびりついている。

 無謀な願いだと知りながらも、彼女の胸にはずっと、ずっと、そのことが消えずにあった。

 いまさら願っても、それこそ無謀だと分かっていても。


 どこか泣きそうな顔で静かに微笑んでいる彼女に、青年が言う。

「確かにな。瞳だけ見たら、お前は上級の悪魔だ。まぁ、俺には劣るが」

 その言葉に、スターチアがパチリと瞬きをした。

「そうなの?」

「ああ。悪魔の中でも、そこまで漆黒の瞳を持つものはなかなかいないぞ。誇りに思うがいい」

「誇りに思えと言われても……。私、人間だもの」

 スターチアは細い肩をヒョイとすくめると、おもむろに口を開いた。

「私が育った地域は、特に熱心なルーオ教の信者が多かったわ。おかげで、私が生まれた時、ちょっとした騒ぎが起きたものよ。まぁ、悪魔と同じ瞳の色を見たら、驚いて当然だもの。大きくなってから知った噂だけど、私を亡き者にしようという話もあったとか」

 彼女は視線を伏せ、ゆっくりとした口調で話を続けた。

「それでも、家族は私を大事に育ててくれたわ。魔力を欠片ほども持っていなかったし、特別なにかが起きたわけでもなかったから、段々と周囲も気にしなくなったの。でも……」

 スターチアは視線を上げ、青年の頭上に浮かんでいる月を見上げる。

「私がそこそこパンを焼けるようになった頃、祖父母が流行り病で亡くなったわ。奥深い農村部で、満足に治療が受けられなかったということもあるんでしょうけど、床に伏してからあっという間だった。そして祖父母を皮切りに、高齢の村人が次々と亡くなったわ。その時は、タチの悪い流行り病は恐ろしいということで終わったの」

 表情を変えず、彼女はさらに話を続けた。

「それから少しして、離れた地域に住んでいる親戚のところに家族で行かなくならない用事があってね。でも、私はひどい風邪を引いていたものだから、一人で残ったわ。一週間ほどで、私の風邪がすっかり治っても、両親や弟たちは戻ってこなかった。どんなに遅くとも、五日後には戻るという話だったのに……」

 スターチアは肩掛けの合わせ目をぎゅっと握る。

 いつもは傲慢で意地の悪いことを言ってばかりのジェンドだったが、この時ばかりは黙って彼女の話を聞いていた。

「十日経っても戻ってこないから、さすがに変だと思っていたところに知らせが届いたの。町で買い物をしている時に暴走した馬車に跳ねられ、両親も弟たちも亡くなったんですって」

 ピクリと、青年の片眉が上がる。

 だが、かける言葉が見つからず、無言を通した。

 スターチアはやはり表情も声の調子も変えず、静かに語り続ける。ただ、肩掛けを握る手にはさらに力が入っていた。

「この辺りから、また影であれこれと囁かれるようになったわ。私が悪魔の力を持っているから、家族が命を失ったって。亡くなった祖父母も村の人たちも、本当は流行り病が原因ではなく、私が関係していたんじゃないかって。それでも、隠れて言う人は、ごく一部だった。……あの日までは」

 この時、初めて彼女の表情が変わる。

 眉尻が下がり、同時に眉根が寄った。唇も小さく震えている。

 まるで、泣きたいのを我慢しているような表情だった。


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