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感動と困惑がないまぜになっているスターチアの表情は、なんともいえないものになっていたのだろう。
そのため、向かいの席に座っているジェンが、ソッと声をかけてくる。
「顔色が悪いな。揺れないように、速度を落とさせるか」
彼女の顔がどこかこわばっている要因は馬車の揺れで気分が悪くなったからだと思ったようで、彼は自身の後頭部付近にある小窓を開け、馭者に指示を出そうとした。
スターチアは軽く身を乗り出し、「違います」と告げる。
「馬車に酔ったわけではないんです。こんなにも素敵な馬車に乗るのは生まれて初めてなので、ひどく緊張してしまって……」
心配かけまいとする強がりではなく、それは本当のことだ。
ガタガタと音を立てて揺れることが当たり前の乗合馬車に慣れているスターチアにとって、この馬車の乗り心地は『本当に、馬車なのか?』と思うほど快適である。
スターチアは気持ちを落ち着かせるために、数度深呼吸をした。
五回繰り返したところで、彼女の表情は徐々に和らいでいく。
その様子に、ジェンは先ほどの彼女の言葉が嘘ではないと悟る。
「まぁ、そういうことなら」
安堵の笑みを浮かべる彼に、スターチアはペコリと頭を下げた。
「ご心配をおかけして、すみませんでした」
「いや、早とちりをしたこちらも悪い。だが、いつもより顔色が悪いのは本当だ。今の体調は、どういった感じだ?」
観察するような視線を向けられ、スターチアは正直に答えるしかない。
「相変わらず、少し喉が痛いです。ですが、それだけです。見た目は細くても、私、けっこう体が丈夫なんですよ。大きな病気にかかったことがありませんし」
微笑みを浮かべるスターチアを、ジェンはジッと見つめる。
「油断は禁物だと言ったではないか。風邪をこじらせると、手に負えなくなる。後々困るのは、自分だぞ」
――この言い方、あの悪魔の青年に似ているわね。
そんなはずはないのに、なぜかスターチアにはそう感じられた。
だが、ジェンには言えない。
いくら悪魔の青年が驚くほど美貌の持ち主で、その悪魔に似ているとしても、まともな人間なら嬉しいとは思わないはず
また、自分が悪魔と会っていることを――いや、相手が勝手にやってくるので、スターチアが望んで会っているわけではないが――誰かに知られるのは、きっとよくないことだろう。
下手をしたら、この町を追い出されるかもしれない。
なにしろ、彼女の瞳は黒いのだ。
あの悪魔の青年の仲間と思われる可能性が、かなり高い。
現在、町の人たちはスターチアのことを受け入れてくれているが、それが覆るのはあっという間である。
これまで親しくしてくれていた村の人たちが、ふと気付いた時には彼女に冷たい視線を容赦なく向けていたように。
スターチアは心の中の呟きを言葉にすることはなく、「はい、気を付けます」と、返すに留めた。
そういったやりとりをしているうちに、馬車は快調に進んでいく。
マールにもらった喉飴を一つ舐め終える頃には、スターチアが暮らす小屋に到着した。
「どうぞ」
先に降りたジェンが、スターチアへと手を差し出す。
令嬢のような扱いを受けたことがなく、そして、恋人と死別して以来、自分と同年代の男性に触れてこなかったので、彼女の心臓がドキドキと音を立てる。
漆黒をまとう青年には、屋根から落ちそうになった時に抱き締められたりしたが、彼女にとって、あれはまた別物という感覚だ。
「あ、ありがとうございます……」
スターチアはぎこちなく微笑み、自分より二回りほど大きな手を静かに握る。
ジェンは彼女がしっかりと足を下ろしたところで、ゆっくりと手を放した。
その彼に、スターチアが深々と頭を下げる。
「送ってくださって、ありがとうございました。とても助かりました」
「暇つぶしに、馬車で遠出したようなものだ。気にしなくていい」
ジェンは苦笑を浮かべると、視線をグルリと巡らせた。
「君は、ここに一人で暮らしているんだな」
彼の視線が背後にある小屋に留まったことに、スターチアはいたたまれなさを感じる。
普段は自分が暮らすこの小屋を恥ずかしいと思ったことはないスターチアだったが、こんなにも立派な馬車を所有している彼に見られると、いたたまれなさがどんどんと膨らんでいく。
――お願い、見ないで! 早く、帰って!
彼女の心情としては小屋に飛び込んでしまいたいが、それではあまりに失礼である。
いくら彼が気晴らしだと言ったとしても、病人の自分を気遣ってくれたのは事実だ。
「あ、あの……、少々お待ちいただけますか? すぐに、戻りますので」
断りを入れ、スターチアはパタパタと小走りで小屋へと向かった。
ほどなくして、彼女は薄い油紙で覆われている細長い形状のものを手に戻ってくる。
彼女がここを離れていた間もジェンは小屋を眺めており、今は屋根部分に視線を向けていた。
「……粗末な小屋ですよね、お恥ずかしいです」
スターチアがいたたまれなさに視線を伏せると、穏やかな声が返ってくる。
「そんなことはない。温かみのある、いい家だ。それに、ここは美味しいパンを焼き上げる自慢の仕事場なのだろう?」
彼の表情にはいっさいの嘲りはなく、本心からの言葉だと伝わってくる。
ホッと安堵の息を吐いたスターチアは、手にしている包みをオズオズと差し出した。
「なんのお礼にもならないでしょうが、よろしければ召し上がってください」
ジェンの視線が彼女の手元に移る。
「これは?」
「干した果物を刻んで生地に練り込んだパウンドケーキです」
馬車内で運賃を払うとスターチアが申し出た時、やんわりと断られた。かといってなにも渡さないのでは、あまりに申し訳ない。
そこでスターチアは、数日前に仕込んだパウンドケーキを渡すことにしたのである。
このケーキは焼き上げてから寝かせることで、しっとりとした食感に仕上がるのだ。今日あたり食べ頃になるので、運賃代わりに渡そうと考えたのである。
――貴族かもしれないジェンさんに私の手作りケーキを渡して、迷惑にならないといいんだけど。
スターチアは自作のパンにそれなりの自信を持っているものの、彼の舌は贅を尽くした日々の食事によって肥えているかもしれない。
だが、礼になるような品は他になかった。
小屋を眺められていた時よりもいたたまれない気持ちでパウンドケーキを差し出していると、彼はフワッと優しい微笑みを浮かべた。
「ありがとう。家に帰ったら、さっそくいただこう」
ふたたび嘘が感じられない表情を見て、スターチアの表情も緩む。
「お口に合うといいのですが……」
自分ではよくできたと思っているが、食の好みは千差万別である。
スターチアは『もし、お口に合わない時は、捨ててください』と続けようとしたが、それよりも先にジェンが口を開く。
「君が作るパンやケーキの評判のよさは、そこかしこで耳にしている。このパウンドケーキも、きっと美味しいだろう」
彼は大事そうに、包みを撫でた。
その手付きはとても丁寧で、彼が本当に喜んでいるのだと窺える。
――失礼に当たらなくて、本当によかったわ。
スターチアがこっそり胸を撫で下ろしていると、ハッとしたようにジェンが顔を上げる。
「体調を悪化させないために送ってきたのに、ここで立ち話をしていては意味がない。さぁ、中で休んでくれ」
「今日は、本当にありがとうございました」
「礼はもういいから、早く家に入れ」
丁寧に頭を下げるスターチアに軽く手を振り、小脇にパウンドケーキを抱えたジェンは馬車へと乗り込んだ。




