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翌朝、いつもと同じ時間に目を覚ましたスターチアは、体調がいつもとは違うことに気付いた。
手足が怠く、なんとなく喉も痛い。
しかし、今のところ頭痛は起きていないし、熱を出している感じもない。
――昨夜はちょっと寒かったものね。
屋根の上で過ごしていた間は、例の肩掛けのおかげで、それほど寒さを感じなかった。
だが、日課を終えて戻ってきた部屋は、火を入れておくのを忘れたため、かなり冷え切っていたのである。
今から炭をおこして火鉢の用意をするのは、どうにも面倒だ。
あとは寝るだけだからと、スターチア部屋を温めないまま寝台に横になった。
当然のことながら寝台も冷え切っていて、毛布に包まっても、肉付きの薄い彼女の体はなかなか温まらない。
せめて足湯に浸かるべきだろうかと考えているうちに、スターチアはうとうとし始め、やがて朝を迎えたのである。
スターチアは朝食前にいつもの作業をこなしたものの、体のふらつきは特に感じなかった。
やはり食欲は若干なかったものの、いっさい食べられないほどではない。根菜をたっぷり入れたスープを一杯食べ切ることができた。
「厚着をして体を冷やさなかったら、きっと大丈夫よね」
喉にいいとされる果実と薬草を蜂蜜で漬け込んだものを瓶からカップに移し、そこにお湯を注ぎながらスターチアは独り言を零す。
念のためにそれを二杯飲み、彼女はパン焼き作業に取り掛かった。
乗合馬車に揺られている最中も、スターチアは軽い倦怠感に襲われていた。
また、喉の痛みは悪化していないものの、よくなってもいない。
だが、ここで引き返してしまうと、せっかく焼いたパンが無駄になってしまう。
――ちょっとくらい体調を崩したからって、なによ。私はそんなに弱くないもの。きっと、パンを売っているうちに、回復するわ。
スターチアは自分に言い聞かせ、馬車の揺れに身を任せていた。
使用許可を得ている公園に着き、彼女はさっそく開店準備に取り掛かる。
ほどなくして常連客が押し寄せ、今日も無事に完売した。
心地よい疲労を感じながら片付けていると、彼女のもとに近付いてくる足音が聞こえてきた。
手を止めたスターチアがそちらに視線を向けたら、珍しいことにジェンがこちらへと歩いてくる姿が目に入る。
「今日も完売だな」
これまた珍しいことに、ジェンのほうから声をかけられた。
いつもなら、ベンチで本を読んでいる彼にスターチアから歩み寄り、お礼やちょっとした報告をして立ち去る。
どういうことだろうかと思いつつも、彼女は「おかげさまで」と言葉を返した。
すると、ジェンドの眉根が僅かに寄る。
「接客していた君の声を聞いた時にも感じたが、やはり声の調子が少々違うな」
それに対し、スターチアは小さく苦笑を浮かべた。
「今朝から、なんだか喉が痛くて。ですが、たいしたことはないんですよ。こうして、パンを売ることもできるくらいの元気はありますし。それに、喉飴をいただいたので」
常連客たちは、スターチアの不調にすぐさま気付いた。
特にマールは彼女を心配し、喉飴を取りに家へと戻ったのである。
スターチアは薄紙に包まれた数個の喉飴を手の平に乗せ、ジェンに見せた。
「最近、町で評判の喉飴だそうです。これを舐めているうちに、よくなりますよ。それでは、失礼します」
ペコリと頭を下げて公園の入り口へと歩き出そうとしたスターチアの前に、ジェンがスッと立ちはだかる。
「あ、あの……、なにか?」
戸惑う彼女に、ジェンが静かに告げた。
「馬車で家まで送る。乗合馬車ではいくつも停留所を経由するので、時間がかかるだろうから」
そういった提案をされるとは思っていたかったため、スターチアはさらに困惑する。
「い、いえ……、それは申し訳ないです。見守っていただいているだけでも、ご迷惑をおかけしていますし……」
ジェンの眉根がさらに寄る。
「それについては、俺の暇つぶしだから気にしなくていいと言っただろう」
「ですが、この程度のことなら、本当に大丈夫なんです」
村を出てから独り暮らしをしているスターチアには、体調を崩しても心配してくれる同居家族が当然いない。
熱が出ても、頭痛に襲われても、彼女は一人で対処してきた。
この程度のちょっとした体調不良なら、どうといったことでもないのだ。
やんわりとジェンの申し出を辞退するスターチアの様子に、彼はフッと短く息を吐く。
次の瞬間、彼女の腕から手提げ籠をサッと奪い取った。
「油断は禁物だ。症状が軽いのなら、むしろ今のうちに体を気遣うべきだろう。そのほうが、回復が早い」
そう言って、ジェンドは歩き出す。
大事な商売道具の一つである籠を奪われ、スターチアは彼についていくしかない。
数歩先を歩く背中を眺めながら、スターチアはヒョイと肩をすくめる。
――意地悪ではないのよね。私が遠慮しているから、それで籠を奪ったんだわ。
やや遠回りの親切心ではあるが、彼なりの優しさなのだろう。
それが証拠に、ジェンは時折振り返り、スターチアがついてきているかどうかを視界の端で確認している。
――こういうちょっと分かりにくいところも、あの悪魔に似ているかしらね。
悪魔の青年はちょっとどころではなくかなり分かりにくいが、二人の青年の根底に流れているものが近いように思えると、スターチアは心の中で呟いた。
公園の外に出ると、一台の馬車が近付いてきた。
乗合馬車とは違い、なかなかに立派な馬車だ。
ジェンは貴族らしからぬ気さくな面を持ち、やや粗雑な言葉使いをしているものの、それなりに身分が高い者のようだ。
扉を開けて待っている馭者に恐縮しきりで頭を下げたスターチアは、そのことに改めて気後れする。
彼女は恐る恐る踏み台に足をかけ、馬車へと乗り込んだ。
――外装以上に、内装が立派だわ。
スターチアが普段から利用しているのは、幌がない乗合馬車だ。
天候の崩れが心配な時は、板でできた荷台の四隅に柱があり、そこに防水仕様の布が掛けられて屋根代わりとなっている馬車を使う。
どちらも運賃が安い分、乗り心地は保障されない。
今では馬車の揺れにすっかり慣れたが、町にやってきたばかりの頃は、振動による軽いふらつきと尻の痛さを覚えるのが常だった。
ところが厚意で乗せてもらったこの馬車は、当然のことながら乗り心地がまるで違う。
向かい合わせに席が作られており、たっぷり詰めた綿の上に手触りのいい布を張った座面はフカフカで、スターチアの寝台よりも柔らかい。
多少揺れたところで綿が衝撃を吸収し、これならどんなに長時間揺られても尻が痛くなることはなさそうだ。
王妃や王女、また貴族令嬢が外出する際に使う物と同じような内装で、スターチアは絵本の中でしかこのような馬車を見たことがない。
自分には一生縁がないと思っていた豪華な馬車に乗せてもらうことができて非常にありがたいが、幼い頃から質素な生活を送ってきた彼女にとって心臓に悪いものでもあった。




