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指でいくら引っ張っても、破ける気配を見せない漆黒の翼に、スターチアは改めて感心していた。
――この翼で空を飛べることもそうだけど、人間の私が触れられるっていうのが驚くべきことなのよね。どういう理屈なのか、本当に不思議だわ。
これまで魔力に携わったこのない彼女には、とにかくこの翼が不思議で仕方がなかった。
魔力とは目に見えないものであり、そこに存在していても空気のように触れることができないと思っていたのである。
それがこうして物体――と言っていいのかどうか分からないが――として存在していることが、とにかく興味深かった。
好奇心はどんどん膨らみ、スターチアは夢中になって翼を触り続ける。
そこに、声がかかった。
「なにをしている?」
「……え?」
そこで、スターチアは右の翼上部を両手で掴み、地中に埋まった根菜を収穫するみたいにグイグイと引っ張っていたことに気付いた。
彼女は慌てて手を放す。
「ご、ごめんなさい! 痛かったかしら?」
オドオドしているスターチアに、青年がどこか呆れたな表情を向けた。
「魔力に痛覚があるわけがないだろうが。いくら愚かな人間でも、そのくらいは知っているんじゃないのか?」
「え? あ……、そ、そうね。そうだったわね」
悪魔が持つ魔力は、人間でいう血液のようなものだとスターチアは聞いたことがあった。
その理屈だと、たしかに痛みは感じないのだろう。
人間が怪我をしても、痛みを感じるのは傷口であり、流れ出た血液をどうされようとも痛くもかゆくもないのだ。
「あまりにもよくできているのと、こうして感触もしっかりしているから、魔力でできているのをすっかり忘れてしまったの。ごめんなさい」
改めてスターチアが謝ると、美貌の青年がまた呆れたような表情を彼女に向けた。
「俺が許したとはいえ、よくもまぁ、あのように遠慮なく引っ張れるものだと思っただけだ。それに、夢中になり過ぎると、足を滑らせるぞ。いくら俺の魔力が強力でも、首が折れた人間を生き返らせるのは不可能だ」
「……本当に、怒っていないの?」
オズオズと問いかけると、青年が小さく頷く。
「ああ」
その返事に、スターチアはホッと息を吐く。
悪魔は卑怯だが、嘘は吐かないのだと、この青年との付き合いで段々と分かってきた。
ただ、怒ってはいないが、彼にはなにか他に思うところがあるのだろうと、スターチアはなんとなく察する。
「あの……」
そう声をかけたものの、どのように尋ねようかとスターチアは迷った。
言葉を探している彼女に、今度はジェンドが尋ねる。
「お前は、この翼が恐ろしくないのか? 俺が、恐ろしくないのか?」
すると、スターチアがソッと首を傾げた。
「恐ろしいと思っていたら、あなたを避けるわ。いくら月を眺めることが日課だとしても、屋根に上ってこないわよ」
あっさりと返ってきた彼女の答えに、ジェンドは表情を変えないまま、だが内心では僅かに安堵の息を零す。
そして、ふたたび問いかけた。
「お前は、魔力を具現化することを便利だと言った。自分も、この翼のような具現化した物を欲しいと思わないのか?」
「え?」
スターチアはパチリと瞬きをして、さらに首を傾げる。
――魔力で作られた物が欲しいのかって?
翼を使って空を飛びたいとは露ほども思わないが、なにか他のものがあったら、それはそれで便利かもしれない。
自動でパン生地を捏ねてくれるとか、畑を耕してくれるとか、決められた時間に牛や鶏に餌をやってくれるとか。
それこそ、魔力がこもった木製人形が一体あれば、スターチアの生活はかなり楽なものになるのだろう。
ところが、彼女はフルリと首を横に振ってみせた。
「思わないわ」
またしてもあっさりと返ってきた言葉に、悪魔の青年が「なぜだ?」と呟いた。
スターチアはパチパチと二度瞬きをしてから、静かに口を開く。
「なぜって……。あなたの魔力は、あなた自身のために使うものでしょ。私があなたの魔力を利用するのは、おかしな話じゃないかしら。あなたが言うところの『図太い人間』であっても、そのくらいはわきまえているわよ」
当然の顔をして答えるスターチアの様子に、ジェンドは内心ではなく、実際に安堵の息を零した。
人智を超えた圧倒的な魔力を目にした人間たちは、その魔力で自分の望みを叶えてほしいと安易に懇願する。
彼はそれほど多くの人間と対峙したわけではないが、ほとんどがそのような反応を見せていたものだ。
ところが、スターチアはまるで違う。
ジェンドが何度となく己の魔力の強さを誇示したところで、彼女はけして媚びることはなく、欲望をむき出しにすることもない。
数度顔を合わせたのち、スターチアが言い出したのは『翼に触ってみたい』というなんとも間抜けで、彼女にはまったく利益のない望みだった。
人間とは欲深い生き物だ。
金、財宝、権力、美貌、長寿。彼らが欲しがるものを上げると、切りがない。
そのあまたある望みを、たったひとつでさえスターチアは口にしなかった。
おまけに、この魔力を利用することをいっさい考えていなかったのだ。
――本当に、この女はなんなのだ?
スターチアに会うたびに、ジェンドの困惑が深まっていく。
しかし、それは嫌な感覚ではなかった。
自分が知る人間たちの反応とは違う様子を見せるスターチアのことを、彼は本気で面白いと思っていた。
これなら、当分暇つぶしができるだろう、と。
欲深く傲慢な人間の召喚に応じた振りをするより、よほど面白い。
――俺がコイツを面白いと思うのは、『なにも望まない』からなのだろうな。コイツは、自分の死以外に対して、興味が薄い。それが、他の人間どもとは大きく違う。
それが、この悪魔の青年にとって非常に新鮮だったのである。
だが、同時にそんなスターチアの生き方が悲しくもあると感じた。




