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スターチアはできる限り青年の背中に顔を近付け、漆黒の翼を観察する。
はじめはたいして興味はなかったものの、悪魔の翼をこんなにも間近で目にする機会は、この先二度と巡ってこないだろう。
それなりに好奇心を持ち合わせているスターチアは、しげしげと翼の付け根を眺めた。
「まぁ、本当だわ。あなたが言うように、服に穴は開いてないのね。でも、服にくっついているようには見えないし、すごく不思議だわ」
感心しているな彼女の口ぶりに、青年の口角がフッと上がる。
「俺たち悪魔は、人智を超えた存在だ。愚かな人間どもは、悪魔という存在の一端も理解できないだろうな」
明らかに馬鹿にした言葉だが、彼の口調はやたらと楽しそうだ。
――やっぱり、変なところで素直なのよね。
スターチアは、心の中で呟く。
苦笑を零した彼女は、なんの気なしに右手を伸ばした。
が、ハッと我に返って、手を引っ込める。
悪魔の青年には、『特別に、近くで見ることを許してやる』と言われたが、触れていいとは言われていなかった。
悪魔らしからぬ性格の持ち主ではあるが、紛れもなく彼は悪魔である。
ふいに機嫌を損ね、飛び去ってしまうかもしれない。
――そのほうが、私にとってはいいのかもね。……だけど、せっかくだから、もうちょっとこの翼を見ていたいし。
スターチアがそんなことを考えていると、青年がふいに振り返った。
「なにをしているんだ?」
形のいい眉を片方だけヒョイと上げて怪訝な表情を浮かべている彼に、スターチアは首を横に振ってみせる。
「いえ、なんでもないわ」
そんな彼女の様子に、ふたたび青年の片眉が上がった。
「なんでもない、だと? 悪魔の俺にズバズバと言いたい放題の図太いお前が、なにをいまさら遠慮しているんだか」
年頃の女性に対して、『図太い』とは、なんともひどい言いぐさである。
スターチアは、ほんの少し頬を膨らませた。
「そんな言い方をしなくてもいいじゃない。あなたに気を使ったのよ、……一応」
あえて『一応』の部分を強調してやると、青年がフンと鼻を鳴らす。
「そういう態度だから、図太いって言ってるんだ。第一、褒めてやったんだぞ」
「えっ?」
その言葉に、スターチアはシパシパと瞬きを繰り返した。
――褒めてやった? どこが?
今度は、スターチアが怪訝な表情を浮かべる。
女性はもちろん、男性でも『あなたは図太いですね』と言われて、素直に喜ぶ者はほとんどいないはずだ。
なにしろ、人間にとっては、いい意味で捉えられない言葉である。
ここで、スターチアは小さく苦笑した。
――ああ、そうね。彼は『人間』じゃなかったわ。
目の前の彼が人間くさい素振りをたびたび見せるため、悪魔であることが頭の中から抜け落ちてしまった。
人間の自分とは感覚も認識も違うこの悪魔からすれば、まさしく『図太い』は誉め言葉なのだろうと、スターチアは思い直した。
――だったら、お言葉に甘えて遠慮しなくてもいいのかしらね。それで断られたとしても、私は別に構わないもの。
スターチアは、自分の瞳よりも深い漆黒色をした瞳を見ながら口を開く。
「ねぇ。その翼って、私も触ることができる?」
それを聞いた青年は、不機嫌も露わにまたしても鼻を鳴らした。おまけに、眉間には縦ジワがグッと刻まれる。
その反応に、スターチアは短く息を吐く。
――やっぱり、見るのと触るのは、訳が違うのね。
魔界では上位の貴族であるという彼は、平民で、しかも人間の自分に触れられることに、我慢ならないのだろう。
とりあえず、悪魔の翼は天使のものとはだいぶ違うということが分かっただけでも、なかなかの大発見である。
その発見を誰かに披露することは、一度たりともないだろうが。
――無駄な知識を得てしまったわ。
クスクスと笑うスターチアに、青年がぶっきらぼうに声をかける。
「魔界の中でも魔力が強い俺の翼だぞ。具現化は完璧だ、馬鹿にするな!」
どうやら、彼女が考えていた理由とはまったく違うところで、彼は怒っているようだ。
スターチアとしては、『魔界の』という言葉が付くものの彼は貴族なので、無礼者と叱責されると思ったのだが。
――今夜も相変わらず、変わっているわねぇ。
ゆっくりと息を吐いた彼女の目の前で、青年は見せつけるかのように翼を一度羽ばたかせた。
「なんだ、触らないのか? 図太いお前でも、さすがに怖気づいたか?」
ニヤリと笑う青年に、スターチアはニッコリと笑い返してやる。
「いえ、ありがたく触らせてもらうわ」
スターチアは今度こそしっかりと右手を伸ばした。
まずは、指先で皮膜に触れ、静かになぞる。
――鞣した皮と同じかと思ったけど、触ってみたらぜんぜん違うわ。
では、なにに似ているのかと問われると、スターチアには答えられない。
初めて触れた悪魔の翼は、彼女が知っている感触のどれとも似ていないのだ。
――それも、そうよね。形のある物体ではなくて、魔力を使って翼を作っているみたいなことを言っていたし。
どういう理屈で翼が作られているのか、人間のスターチアにはさっぱり理解できない。
だが、深く掘り下げるつもりはさらさらないので、青年に尋ねることはしなかった。
その代わりというかなんというか、スターチアは改めて彼に声をかける。
「ついでに、ちょっと引っ張ってもいいかしら?」
「……は?」
肩越しに振り返った彼は、先ほど以上に呆れた表情を浮かべていた。
「悪魔の翼を引っ張るだと? お前は、どういう神経をしているんだ?」
「なによ、私のことを図太いって褒めたのは、あなたじゃない。それで、引っ張っていいの? 駄目なの?」
図太さをありありと発揮しているスターチアの様子に、彼は盛大なため息を吐いた。
「……好きにしろ」
「じゃあ、失礼して」
スターチアは翼の端部分の皮膜を指で摘まむと、クイッと引っ張る。
二度、三度と引っ張ってみても、破ける気配はいっさいなかった。
「こんなに薄いのに、すごく丈夫なのね。魔力の具現化って、なんだか便利だわ」
文句を言われないのをいいことに、スターチアは気が済むまで悪魔の翼を引っ張り続けたのだった。




