(3)
丸太小屋からしばらく歩いたところに、乗合馬車の停留所がある。
スターチアは見た目が粗末だが、その分運賃が安い馬車に乗り込み、いつもの公園にやってきた。
王都から西に位置するこの町の中心地には、そこそこに広い公園がある。ここは役所に申請書を出していくらかの手数料を払うと、小規模な商売をしていいことになっているのだ。
すっかり慣れた手つきで定位置となっているベンチの一つに大きな布を掛け、彼女はパンが詰まっている籠を置いた。
すると、程なくしてワラワラと人が集まってくる。
「スターチア、今日のおすすめはなんだい?」
真っ先に声をかけてきたのは、ややふくよかな年配の女性だ。彼女がパンを売りに来ると、必ず足を運んでくれる常連客の一人である。
スターチアはパンにかかっていた布を持ち上げ、自慢の商品を見せた。
「胡桃入りのパンです。香ばしい風味が最高で、肉料理にも魚料理にも合うと思います。あとは煮リンゴのパウンドケーキも、なかなかいい味かと」
「じゃ、一つずつもらおうかしらね」
生きていたら母親もこのくらいの歳であろうと思わせるこの女性客は、スターチアにニッコリと笑いかけてきた。
一人でいると表情が少ない彼女でも、自作のパンを心待ちにしてくれているお客にはきちんと笑顔で対応できる。いまだにぎこちない笑顔であっても、彼女なりの精いっぱいであった。
「マールさん、いつもありがとうございます」
スターチアが微笑み返すと、女性客はとんでもないとばかりに片手をブンブンと左右に振る。
「礼を言うのはこっちだよ。スターチアのおかげで、私たちは安くて美味しいパンが食べられるんだからさ」
そして、さらに眩しい笑顔が返ってきた。
マールに同調して、周囲の客たちも深く頷く。
「ホント、ホント。スターチアのパンを食べたら、町で売ってるパンは食べられないね」
マールと同じ年代の女性が、顔を顰めながら首を左右に振る。
その女性の言葉に、白髪交じりの男性が同じように顔を顰めた。
「店構えだけは立派だけど、店員の態度は酷かったな」
「そうだよ。あいつら、大して旨くもないパンを平気で売りつけてさ。文句を言いに行ったら、『そっちの味覚がおかしいんだ』って、怒鳴り返されたよ」
「うちの三歳の娘は、スターチアが焼いたパンしか絶対に食べないんだ。他の店のパンは、一口齧っただけで見向きもしない」
子連れでパンを買いに来た女性客二人は、声高に怒りを露わにしている。
常連客が話題にしているのは、ある貴族が出資しているパン屋のことだ。
その店は王都寄りの大通りにあり、篤志家で名高い伯爵家の当主が慈善事業の一環として、身寄りがない者を雇い入れているそうだ。とはいえ彼らは裏方で作業を行い、店頭に出るのは、その貴族の知り合いらしい。
以前、スターチアは勉強の意味でその店に出向き、菓子パンや総菜パンなどいくつかの商品を買った。
それらは彼女が売るパンの三倍から五倍の値段だったが、貴族たちの間でそれなりに売れているとのこと。
持ち帰ったパンを帰宅後にさっそく食べてみると、値段に見合った味とは思えなかった。
やたらと凝りすぎてしまっているせいで、小麦本来の香ばしさや甘味がすっかり消えているように思えたのだ。
貴族たちの間では流行っているそうなので、おそらく個人の味覚の問題なのだろう。
スターチアは取り立てて凝ったパンは作れないが、その代わりに素材を活かして味わい深いパンを作ることを得意としていた。
パン職人であった祖父は、素朴ながらも食べ飽きないパンを得意としていたのである。その祖父からみっちり仕込まれたスターチアは、しっかりとその技術を受け継いでいた。
そういったわけでスターチアのパンを心待ちにしている常連客には、貴族が出資している店のパンが口に合わないのも仕方がないかもしれない。
自分のパンが口々に褒められるのを聞くのは嬉しいけれど、なにを美味しいと感じるのかは人それぞれなので、常連客の言葉で舞い上がることはしない。
「私が作るパンを褒めてもらえて、すごく嬉しいです。ですが、食べ物の好みは人それぞれですから」
その店の話はそのくらいでやめておいたほうがいいと言外に込め、スターチアは静かに苦笑を浮かべる。
そんな彼女の様子を見て、周囲の者たちは「謙虚だねぇ」と、褒めそやかしたのだった。
ひとしきりおしゃべりが済んだところで、客たちはパンを選び始める。
いつも買っているパンを選ぶお客、新商品のパンを見比べて迷うお客、試食のパンをもらって喜ぶ子供たち。
そこには、とてものんびりした空気が流れていた。
町はずれの丸太小屋で暮らし、人との付き合いを積極的に深めようとしないスターチアだが、この時間はかけがえのないものでもある。
そうこうしているうちに、スターチアが用意してきたパンは一時間も経たないうちにすべて売り切れた。
空になったパン籠を見て、彼女はソッと微笑む。
自分が愛情を込めて焼き上げたパンは我が子同然であり、その我が子たちが望まれてお客の手に渡る様子は、彼女にとってなによりの喜びなのだ。
満足した気分で店じまいをしていると、まだそこにいたマールが話しかけてくる。
「ねぇ、スターチア。困っていることはないかい?」
この年配の女性は、スターチアが独り暮らしをしていることを常に気にかけていた。なにかにつけ、こうして心配してくれているのである。
手を止めたスターチアは、いつものように微笑んだ。
「ええ、なにも困っていないですよ。今のところ、物取りに押し入られたこともないですし」
「今のところって言ってもねぇ」
彼女の言葉に、マールは苦笑いを浮かべた。
そんなマールの様子に、スターチアは細い肩をヒョイと竦めてみせる。
「この先、物取りが来ない保証はないですけど。見るからにお金がなさそうな家に、わざわざ押し入るようなことはありませんよ」
そう言って、彼女は店じまいの作業を再開した。
物取りは、その家の金品を目的として侵入するが、場合によっては、家主を害することもある。
それはスターチアでも知っているはずなのだが、彼女は一向に取り合おうとしないのだ。
淡々としているスターチアの振る舞いに、マールの心配はますます膨れ上がる。
「スターチアに頼りになる恋人でもいたら、私たちも安心なんだけどさ。いくらスターチアがしっかり者とはいえ、若い女の一人暮らしはやっぱり危ないよ。最近は、そういった家に押し入ることもあるそうだよ」
このところ、金品目的ではなく、女性そのものを目的として押し入る事件がいくつか起きているとのこと。
それを心配して、マールはスターチアに詰め寄った。
「ねぇ、うちの息子はどうだい? 親の私が言うのも馬鹿みたいだが、優しくて真面目な男だよ」
マールのように、スターチアの身を案じて薦められた縁談はいくつかあった。誰もかれも身元がしっかりしていて、評判のいい男性ばかりだった。
それでも、スターチアは一度たりとも頷いたことはない。
「お話はとても嬉しいのですが、どうしても恋人とか結婚とか考えられないんです。本当に、ごめんなさい」
申し訳ない顔で断りを入れたところ、マールは「気が変わったら、いつでも言っておくれ。スターチアが娘になってくれたら、ウチの家族は泣いて喜ぶよ」と残して去っていった。
「恋人、ね……」
マールの後ろ姿を眺めながら、スターチアがポツリと呟く。
恋しい人、想いが通じ合った人。それは、胸をくすぐる甘い響きがある。
だが自分には必要のない存在だと、スターチアはこの年齢で割り切っていた。
恋して愛した相手が、自分より先に逝ってしまったら?
残された者は、その後、どうしたらいい?
不慮の事故で恋人を失った経験を持つ彼女は、どんなに周囲が勧めてきても恋人を作る気にはなれないのだ。
大事な人を失う痛みに比べたら、寂しさはいくらでも我慢できる。
胸を引き裂くあのつらさは、もう二度と味わいたくない。
大事な人の遺体を前にして自分の無力を痛感することなど、もう二度とごめんだった。
「一人きりで暮すのも、気楽でいいものだわ」
帰り支度を終えたスターチアは、空にぽっかり浮かぶひとひらの小さな雲を眺めながら呟いた。